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日本代表監督史3_1 加茂周監督

みなさんこんにちわ!

今回は「日本代表監督の歴史3 加茂周監督」というお話です。
アジア大会でベスト8止まりという結果を受け、ファルカン監督はわずか7ヶ月で監督交代となりました。
個人的には協会側のビジョンがたりなかったんじゃない?って思いましたが、皆さんはどうでしょうか?
今回は、少し長くなりますが後任の加茂周監督についてのお話です。
(弟さんは大阪府や首都圏を中心にあるサッカーショップKAMOの経営者)
もしかしたら、今後の日本代表が向かうべき方向がみえるかもしれません。


①加茂周監督の基本データ

本名: 加茂 周 (かも しゅう)
・生年月日: 1939年10月29日
・国籍: 日本
・日本代表就任時期: 1994年12月 - 1997年10月
・選手時代のポジション: フォワード (FW)

・選手経歴
 〔代表チーム〕
  ・特に記録なし
 〔クラブチーム〕
  ・ヤンマーディーゼル (現・セレッソ大阪)(1964年 - 1967年)

・監督経歴
 〔代表チーム〕
  ・日本代表 (1994年 - 1997年)
 〔クラブチーム〕
  ・日産自動車 (1974年 - 1989年)
  ・全日空 / 横浜フリューゲルス (1991年 - 1994年)
  ・京都パープルサンガ (1999年 - 2000年)
  ・関西学院大学 (2007年 - 2009年)

加茂監督は日産自動車サッカー部(後の横浜Fマリノス)の監督時代に数々のタイトルを取り、横浜フリューゲルスでも天皇杯を獲得した名将でした。確か日本人初のプロ契約監督でもあったと思います。

②加茂周監督になった経緯

ファルカン監督は選手とのコミュニケーションに問題があり、「それなら日本人がいい」ということで加茂監督に白羽の矢がたったというのが経緯です。日本人の中では実績が飛び抜けてましたから加茂監督でよかったと思います。

この「コミュニケーションの問題」というワードは監督解任時の理由によくでてきます。
かなりのケースが「コミュニケーションの問題」ではなく他に問題だったりするんです。
ファルカン監督は、世代交代を進めないといけない状況で、7ヶ月で結果をだせは酷だったと僕は思います。
それにしても、ファルカン監督の後任を選ぶ際『世界を目指すならW杯を経験した監督が必要』という前回掲げた理由はどこにいったのやら。。

③日本代表の戦術とシステム

加茂ジャパンのシステムはこんな感じでした。
「モダンサッカー」を掲げ基本的なシステムは4-4-2(2ボランチ)でした。
以前、4-4-2(2ボランチ)でお話した守備に適したバランスの良いシステムですね。

図1 アルゼンチン戦
図2 韓国戦
図3 サウジアラビア戦


この時日本は2002年のワールドカップ開催に立候補していました。そのため直近の1998年ワールドカップに出場することは至上命題(至上命令)でした。
なぜなら今までワールドカップに出場したことがない国が開催地になったことがないからです。
「出場もしたこともない国がワールドカップできるの?レベル低すぎじゃない?」って見られてしまうのを避けたいですし、招致も成功させたい。
そういう別のプレッシャーもこの時の日本代表にはありました。

※2022年のカタール代表はワールドカップ出場経験のない開催国というはじめてのケースなんです。

④インターコンチネンタル選手権 (1995年1月)

「インターコンチネンタル選手権(キング・ファハド・カップ)」は後に「FIFAコンフェデレーションカップ」と呼ばれる各大陸の代表が戦う試合でした。
日本は世代交代のタイミングで監督も変わったばかり、そして敵が格上だったこともあり結果は惨敗。

加茂周監督は「モダンなサッカー」という目標を掲げて、ゾーンプレスという守備戦術を使っていました。これは加茂周監督が横浜フリューゲルスで結果を出していた戦い方です。
このゾーンプレス自体はACミランのアリゴ・サッキが1987年辺りに進化させた当時の最新戦術でした。(ゾーンプレス自体はもっと昔のリバプールでもやっていた戦い方です)
ゾーンプレスは、守備の時に敵のスペースをサイドに圧縮してボールを奪うという現代サッカーに通じる戦術です。
ですが、日本代表はプレスの甘さと敵の個人レベルの高さからうまくプレスが機能しませんでした。

・1995年1月6日 ナイジェリア 0-3で敗北
・1995年1月8日 アルゼンチン戦 1-5で敗北

アルゼンチン代表のバティストゥータ、オルテガサムエルなどのスター選手が出場していましたね。日本は明らかに個でも組織でも劣っていました。

⑤ダイナスティカップ(1995年2月)

翌月の香港(当時はイギリス領)で開催されたダイナスティカップ。加茂ジャパンは初タイトルを獲得します。ダイナスティカップは後のE-1選手権という大会になった東アジアの国だけの大会です。この時は日本、韓国、中国、香港の4ヶ国での大会でした。

世代交代を進めていた日本代表ですが、当時世界最強リーグと呼ばれていたセリエAへの挑戦のため三浦カズが不在。若手を多く抜擢しました。
黒崎選手が得点王の大活躍というのもありましたが、前園真聖劇場ともいえる前園選手の活躍が光った大会でした。

・1995年2月19日: 日本 3-0 香港リーグ選抜
・1995年2月21日: 日本 1-1 韓国
・1995年2月23日: 日本 2-1 中国
・1995年2月26日(決勝): 日本 2-2 韓国(PK 5-3)

若い選手はどんどん日本代表に呼んで一緒に練習させたり、試合で試したりして世代間の競争を常にしていないと、スムーズには世代交代が進まないんですよね。実は。
これは今の森安ジャパンでは良くできています。

この大会では21歳の前園選手のキレキレぶりはすごかったんです。
個人的は前園選手以降中央を突破できる足首の柔らかいドリブラーは現れてないなと思います。

⑥キリンカップ(1995年5月)

加茂監督になってから始まったゾーンプレスが浸透して成果が現れ始めたのがこのキリンカップです。若手も森島寛晃選手、相馬直樹選手、田坂和昭選手、名良橋晃選手と抜擢され育ってきました。

・1995年5月21日: 日本 0-0 スコットランド
・1995年5月28日: 日本 3-0 エクアドル


⑦アンブロカップ(1995年6月)

この大会はイングランドでの開催を翌年夏に控えた欧州選手権(EURO)のリハーサルとして開かれた大会でした。

ちょっと日本が呼ばれた理由はわかりませんが、1994年アメリカワールドカップで優勝したブラジルなど一流国と対戦して得るものが多かった大会でした。
日本は善戦はしましたがやはりはっきりとした差がありました。

・1995年6月3日: 日本 1-2 イングランド
・1995年6月6日: 日本 0-3 ブラジル
・1995年6月11日: 日本 2-2 スウェーデン


⑧サン・スパーク カップ(1995年8月)

サン・スパーク カップは、1995年8月9日に東京の国立競技場で行われたサッカーの親善試合です。この試合は、日本とブラジルの対戦で、日本ブラジル修好100周年を記念して開催されました。

この試合には、ブラジルのトップ選手たちが出場しており、ジョルジーニョ、セザール・サンパイオ、ドゥンガ、レオナルド、エジムンドなどがプレーしています。(全員Jリーグでプレーしています)

・1995年8月9日: 日本 1-5 ブラジル


海外の主要国とマッチメイクできることはすごいですし、日本代表ファンとしては有名選手が観れることは嬉しいんです。
が、やはりワールドカップ出場が目標だったので、仮想〇〇とかアジア予選を意識したマッチメイクがあって良かったんじゃないかと思います。

⑨デサントアディダス マッチ(1995年9・10月)

ここで加茂監督になって初めて中東勢のサウジアラビアと戦いました。
結果は2-1で勝利しましたが、今振り返っても、もっと中東勢とマッチメイクすべきだったと思います。
日本は基本的に中東勢のカウンターや放り込みに弱い一面があります。それは昔から変わってない気がしますよね。

・1995年9月20日:日本代表 1-2 パラグアイ代表
・1995年10月24日:日本代表 2-1 サウジアラビア代表
・1995年10月28日:日本代表 2-1 サウジアラビア代表


【【ネルシーニョ騒動】】
ここで、日本代表の歴史として忘れてはいけない騒動が起こります。
通称「ネルシーニョ騒動」「腐ったみかん事件」と言われるものです。

1995年11月末で契約満了となる加茂周監督の後任として、日本サッカー協会(JFA)の日本協会強化委員会とその中心である加藤久氏は外国人監督の起用を決定します。そして後任候補として、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)のネルシーニョ監督が選ばれました。
ネルシーニョ氏は理論や分析力に優れ、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の選手たちからの信頼も厚いカリスマ性を持っていました。
交渉が進み、ネルシーニョ監督も前向きな姿勢を見せていましたが、1995年11月、突然JFAの長沼健会長が加茂監督の続投を発表します。
この決定はJFA(日本サッカー協会)内部の派閥争いが影響していた可能性があるようです。

というのも、加茂監督の続投発表後、加藤久強化委員長は協会幹部に対する不信感をあらわにしています。
はしごを外された形のネルシーニョ氏は記者会見で報道陣に対し「協会は監督を選ぶ権利はあるが、ふざける権利はない」「ミカンの籠の中には腐ったミカンが2つや3つは入っているものだ」などと、かなり厳しい言葉も使って協会への不信感をあらわにしたうえで、「年俸110万ドル、(ワールドカップフランス大会アジア)予選突破ボーナスなど80万ドル」などの金銭的条件、さらにはコーチの人事案などをばらしてしまいました。

あまりにもお粗末な監督人事をめぐる騒動でしたね。これは。。
加茂周監督も一時退任の通告を受けていたのに、「長沼会長が言うなら」ということで日本代表監督をそのまま引き受けています。


加茂周監督の契約更新をしないとしていた理由は、次な様なものです。

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1.戦術の柔軟性の欠如:加茂監督の戦術は「ゾーンプレス」を中心としたものでしたが、これが敵チームに読まれやすく、特に強豪国との対戦では効果が薄いとされました。
→ゾーンプレス自体を90分続けることは難しかったんです。なので試合終盤のプレスがかからない時間帯を狙われ失点していました。
またゾーンプレスの弱点である「人と人の間に立つポジショニング」で誰がプレスにいくか問題を起こしたり、そもそもロングボールを蹴ってプレスを無効化したり、対策がされてきたときの対抗策が打ち出せないってことがありました。


2.選手起用の問題:一部の選手選考や起用法に疑問が持たれていました。特に、ベテラン選手と若手選手のバランスが取れていないと感じる声がありました。
→ベテランをもっと使った方がいいのでは?という声です。これは人によって選考基準が違うのでなんとも言えませんが、ゾーンプレスをするんであれば走れる若手を使うんじゃないかと思うので加茂監督は間違ってない気がしました。


3.コミュニケーションの問題:監督と選手、または監督と協会との間でのコミュニケーションがうまくいっていないとされ、これがチームの一体感に影響を与えていたと言われています。
→でてきました。コミュニケーションの問題。
実は協会側が監督、選手とコミュニケーションできてないんじゃないかと思っちゃいましたが。。

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ワールドカップ初出場を目指していた加茂ジャパンはこんなゴタゴタのなか戦っていたんです。当時はワールドカップに一回もでたことがない国なので、今振り返えると色々とおかしいことがわかります。
1995年の日本代表は年間16試合ぐらい試合をしています。
選手を招集して1週間練習+2試合できると考えると8週間×7日で56日程度です。
しかも選手の入れ替わりもあり、招集の間隔が開くことを考えると世代交代を進めることがいかに難しいかわかります。
当時の協会は何を考えていたんでしょうね?

■PS
こんな感じで加茂周監督の前半のお話は終わりです。
当時のやっていたことが今考えると相当おかしい事がわかります。
本当のissue(問題)は何か見極める事が大事ですよね。


では、また!


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