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あなたの理由になりたい。

恋人が家に泊まりにきたときの、お風呂上がりの瞬間が好きだ。
お風呂場から出てきたときに、湯気と一緒に香るシャンプーのにおい。
私の家に泊まりに来ているので、必然的にシャンプーのにおいが一緒になるのだけど、その香りを纏わせている好きな人、というのが堪らなく好きだ。


「自分だけが使う流行りのシャンプーが欲しい」
「自分の部屋にテレビが欲しい」

「お弁当はコンビニで買いたい」

これは、学生の頃の私が想っていた我儘。
特に多感だった中学二年生~高校三年間辺りは、この辺りのことを考えては悶々としていた。

例えばシャンプーも、私の中学校では女子に人気のシャンプーが2種類くらいあって、私もそのシャンプーが使いたかった。
一つは香りが人気で、もう一つはそのシャンプーの中でも2種類の香りがあって、どっちが好き?なんて会話がされていたからだ。
そしてその話が出るたびに、同級生たちは「親とは違うシャンプーを使ってる」「家族全員別のシャンプーを使ってる」という事実を知ることになる。
私の家では、おばあちゃんから弟まで、私を含めて6人家族、全員が同じシャンプーを使っていた、勿論ボディソープも。
それが当たり前だと想っていたし、特に不満もなかったのだけど、やはり周りの同級生からそういう言葉を聞くたびに、お洒落な、可愛らしい香りのするシャンプーに憧れていた。

それと同じようにテレビもそうだった。居間と、もうひとつ座敷の部屋(と、うちでは呼んでいた)にしかテレビがなかったので、
もし居間で父がプロ野球を見ているなら、必然的に座敷の部屋で別のテレビを見ることになるのだけど、
それは本当に、本当にどうしても見たいものがあるときのみで、基本的には「チャンネル変えていい?」「今日の夜はどうしてもこれが見たい!」というチャンネル争いをして、家族みんな、居間でテレビを見るのが普通だった。
それが、同級生たちは自分の部屋で、自分の好きなチャンネルを、自分の好きな時に見れるということが衝撃だった。

コンビニ弁当に憧れていた、というのも、本当に子どもらしい話なのだけど、中学時代に時々あったお弁当の日、ほとんどの子がお母さんに持たされたお弁当の中、コンビニの袋から出てくる、綺麗な形のおにぎりや、パスタなんかを食べている子がいると、なぜかそれが本当においしそうに見えて、すごくうらやましかったのだ。
しかも、中学一年生まではお母さんが作ってくれたお弁当が多かった同級生達も、中学二年生、三年、になってくると、徐々にコンビニ弁当の人が増え、特に高校生になって毎日お弁当になると、コンビニ弁当や購買で買ったお弁当、パンを買っている同級生が5~6割だったような気がする。
私のお弁当は、毎朝母が作ってくれいて、これがもう本当に素晴らしいお弁当だった。
おかずが6~7品入っていて、冷凍食品は入ってても2個、彩りはいつも完璧で、勿論味も美味しい。
そんなお弁当も、いまにして思えば本当にありがたいことなのに、どうしてもコンビニ弁当や購買のパンが食べたいときなんかは、
母の作ってくれたお弁当を朝ごはんとして学校で食べて、お昼に購買へ走る、ということを時々していた。
お金は自分でバイトして稼いだお金だったけれど、母に「今日お弁当いらない」「お昼は購買のパン食べた」とは口が裂けても言えなかったので、
どこかで、母に申し訳ない気持ちを持ちながらも、時々そうやって他の同級生を同じようなものを食べることが、「安心」だった。

私が学生の頃に想っていた「ゆたかさ」は、周りと同じであること、そして何でも手に入ることだったんだと想う。
欲しいものが手に入り、何不自由なく、好きなものを選択できること。
私は別のnoteにも書いているが、中学生時代、いじめにあって登校拒否をしていたので、尚更、他の同級生と「同じ」ものを手に入れて、同じように笑えるようになりたいと想っていた。
同級生が可愛いといっているシャンプーを使って、テレビは流行っているものを全部チェックして、コンビニの綺麗な形のおにぎりを食べること。
そういった他の同級生と同じものが手に入ることが、「ゆたかな生活」のひとつだった。
だから、恥ずかしかったのだと想う。
親や姉弟と同じシャンプーを使っていること、テレビが自分の部屋にないこと、親の作ったお弁当を食べることが。
 

18歳で地元を出て、ひとり暮らしを始めてから、それは少しずつ変化していく。

ひとり暮らしなので、少しでも食費を浮かせようと、自分で毎日学校にお弁当を持っていくことにしたとき、
ごく当たり前のように「おかずは最低6品欲しいな」「彩り足りないから、ブロッコリーも入れよう」と想いながら作っている自分に気づいた。
そしてそれは、毎日やろうとすると案外大変で、そのときに、母はこれを毎日、しかも姉と弟もいたので、私達姉弟が高校生だった約7年間、毎朝やってくれていたのか、と驚いた。
そしてそれは私の中で「当たり前」のこととしてインプットされていて、大学にそのお弁当を持っていくと、
「すごいね!」「こんなにちゃんとしたお弁当毎日って大変じゃない?」と言われ、実家の母のお弁当がこうだったから、と答えると、「お母さんすごいんだねえ」と言われたこともあった。

大型連休を使って実家に帰れば、同じように帰省していた姉も、私も、そして勿論実家にいた家族、その頃は祖母、父、母、弟も、みんなお風呂上りに、同じシャンプーの香りがする。

ひとり暮らしの家では、チャンネル争いなんて生まれず、自分が見たいときに見たいテレビをみることができるけれど、
「この番組見たいんだよね」「それ誰が出るの?」「何時から?」「21時からはこれにしたい!」という会話も生まれず、
テレビを見ながら「これ知ってる!」なんて話すこともない。

そういったひとつひとつに気付いたとき、私は、自分がいままで「こうだったらいいのに」「こうだったら同級生と同じなのに」と想っていたものよりも、いまの自分が経験してきた、持ち合わせてきたものにだって価値があると気付いた。
私の中で「当たり前」で、時々その当たり前とは違う価値観や、違う生活に触れるたび、
違う価値観のほうがいいな、そういっている人の方が多いから安心だな、と想っていたけれど、
大人になって、私は私が経験してきた、その「当たり前」をよかった、と想えるようになっている。

冒頭にも書いたように、好きな人が同じ香りを纏わせて、一緒に眠ることに、私はとても安心感を覚える。
いまでも一人だとあまりテレビを見ることはないのに、実家に帰ると必ず母と録り溜めてあるドラマや映画を観て、感想を言い合うこともある。
料理は母の影響が強く、基本的には困らない程度に自炊もできるし、お弁当はいまだにおかずを6~7品、彩りよく作るようにしている。

ベースとして、ゆたかさ、というものは、「自分を安心させてくれるもの」だと想う。
そしてそのゆたかさ、というのは、自分の人生のフェーズによって変化するもの。
私の学生時代のゆたかさは、いかに周りと同じでいられるか、その為に何でも手に入れられる自由がある、ということ。
そしてその頃、恥ずかしいと想っていたことが、大人になった私のいまのゆたかさを形成してくれている。
いまの私にとって安心するのは、同じシャンプーの匂い、一緒に一つのテレビを見ること、彩りのいいお弁当、だからだ。


生きていくうえで、安心を求めるのは当然だと想う。
それは、お金であったり、仕事であったり、パートナーであったり、趣味であったり…形は様々で、そのいくつかのものは、人によって価値も、優先順位も違う。
その「安心材料」がいくつかあることが「ゆたかさ」に繋がると私は想っている。

ゆたかである中で、勿論、私のように、「昔はこれが安心だったのに」というものが、いつの間にか形を変えて、「いまはこれが安心だ」という風に馴染んでいくこともあるだろうし、逆も然り。
それでも、私の「安心」の中には、いつでも家族や、好きな人など、自分以外の「誰か」が関わってくれていて成り立っている。
だから私も、誰かの「ゆたかさ」の理由になりたいのだ。

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