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【読書コラム】いじめをする側に誰だってなり得る - 『娘がいじめをしていました』しろやぎ秋吾(著)

 学校の先生をやっている友だちから凄い本があると教えてもらった。しろやぎ秋吾さんの『娘がいじめをしていました』だ。タイトルだけで胸が痛くなる。

 ある日、自分の娘が学校でいじめをしていたと知るお母さん視点から物語は始まる。

 このお母さん、学生時代にいじめられていた経験があるので、どうしていいかわからなくなる。未だに当時の嫌な記憶がフラッシュバックするぐらいなので、いじめをしている娘に対して嫌悪感も抱いてしまう。

 とにかく謝りにいかなくては。娘がいじめてしまった子の親御さんから連絡があったので、慌てて、家族で先方のお宅へ向かう。ひたすら頭を下げて、ひとまず、反省の念は伝わったみたいとホッとする。

 しかし、それから数ヶ月後。ネット上にいじめっ子として娘の写真が掲載され、大炎上。さらには実際に娘がいじめをしていた様子の動画も投稿され、誹謗中傷のコメントがあふれる。

 なんでこんなことに……。

 読んでいて、ずっとしんどかった。

 どうやら、いじめをした子といじめられていた子はもともと仲良しだったらしい。ただ、学年が上がるにつれ、人間関係も変化するので、距離感が微妙にズレていく。やがて、仲良しであることをまわりにからかわれるのが嫌になり、強めに拒絶のポーズをとってしまう。たぶん、これはよくある話。

 学校って閉鎖的な空間だから、みんな、自分がいじめられたらどうしようと不安を覚えてしまいがち。それが疑心暗鬼につながって、まだなにも起きていないのに、先回りで攻撃をしかけてしまうことは多々ある。

 実際、小中学生の頃、わたしもそうやって攻撃をされた。物を隠されたり、プリントに悪口を書かれたときの切なさを思い出すと、未だに、ゾワッと心が乱れる。逆に、わたしも攻撃をしてしまった。嫌いなあの子にぶつけてしまったイヤミな一言、できることなら取り消したい。

 運よく、わたしの場合は一連のやりとりで学校に行くのが怖くなるほどの精神的な問題を抱えて抱えることはなかったし、抱えさせることもなかった。なので、表面上、いじめはなかったという評価になっていた。でも、一歩間違えれば、いわゆる「いじめ」になり得る余地は多分にあった。

 これまで「いじめ」について考えるとき、過去の自分がいじめられる側になっていた可能性について想像してきた。でも、『娘がいじめをしていました』を読んで、価値観が一変した。自分がいじめる側になっていた可能性もあるじゃないかと気がついた。そして、そのことを無視してきた自分が恐ろしかった。

 いじめは絶対にダメなものというイメージから、いじめをするようなやつはろくでなしなので、徹底的に罰を与えるべきというネットの論調に共感していた。いじめが事件として報道される際に使われる加害者・被害者という用語を無批判に受け入れて、「いじめ」を非日常的な現象と錯覚していた。無意識のうちにいじめをする子どもたちをモンスター扱いしていた。ゆえに排除もやむを得ないと納得していた。

 特にニュースとなる「いじめ」は嗜虐性が高いことも影響しているのだろう。自殺に追い込んだとか、数百万円を恐喝したとか、自慰行為の動画を強要したとか、従来の「いじめ」が表していた内容から大きく逸脱した内容であっても、同じ単語を使っているので、知らず知らず、大人たちの認識する「いじめ」の定義が変わってきているような気がする。

 なるほど、たしかにそういう事件のはじまりは無視をするとか、醜悪なあだ名をつけるとか、わたしたちの知っている「いじめ」から始まっているのかもしれない。加えて、「いじめ」自体が肯定されるものではないし、誰もが大なり小なりいじめられた経験を持っているので、SNSでは被害者の立場で怒りを表明したくなってしまう。

 でも、それは大人の論理だ。そういうメディアによって更新されていくイメージをそのまま、子どもたちの言動に当てはめてしまったら、事実を歪めることになるかもしれない。

 この本を教えてくれた先生をやっている友だちがこんなことを言っていた。

「例えば、小学生は好奇心でアリを殺したりするけど、同じことを大人がやっていたら、けっこうヤバいよね。子どもってそれぐらい大人と違うんだよね。だから、子どもたちを一箇所に集めたら、大人の感覚からすると信じられないことが起こる、特に小学生や中学生は。だからこそ不完全さを前提として排除ではない方法でみんなで子どもたちを大人へ押し上げていかなきゃいけない」

 なのに、この漫画だといじめられている子の親がまず先生に相談するんだけど、モンスターペアレンツ扱いされるのが嫌で、少し弱腰になってしまう。先生も先生で問題が大きくなるのを避けたいから、様子を見ることしかできない。で、気づいたら暴力行為に発展し、いじめられた子が不登校になったことで、不信感は爆発してしまう。

 で、いじめられた子の親は誰に相談しても埒があかないということで、SNSで告発し、ネット世論でいじめた子に私刑を加える道を選んでしまう。そして、多くの人が一部の情報しか目にしていないにもかかわらず、正義感から法を無視した危害におよぶ。

 誰にとっても、なんでこんなことに……、な展開だけど、いまの時代、全然あり得る。

 もし、大人たちが信頼関係を築けていて、子どもたちは集団生活をするために必要な常識を学んでいる途中だから、トラブルが起きたら一緒に向き合っていくという体制が取れていたら、状況は違っていたのかもしれない。

 ただ、大人は大人でそれができない事情もある。とにかく、みんな忙し過ぎるし、責任問題になったとき晒されるストレスを考えたら、見て見ぬフリをしたくなる。

 これは子育てや教育に限ったことではない。資本主義社会は時間がお金に換算されてしまうので、なにもしない時間は損失計上されてしまう。そうなると仕事でも生活でも可能な限り予定を詰めた方が得となる。結果、トラブルが起きない想定で過密な予定が組まれがち。

 具体的に言えば、人件費がもったいないので労働者全員が常に働き続ける形で回している職場はそこら中に存在している。本来、人手が足りないのであれば、その商売は実行不可能なはずなのに、人材派遣サービスやタイミーなどを駆使して、無理やり成立させている。学校にしたって、非常勤講師で間に合わせていたりする。

 そんな待遇で働いている先生が面倒ごとに首を突っ込みたいと思うだろうか。当然、できたら立派だけれど、そこまで求めるのはあまりに酷だ。一方、常勤の先生も背負わされる仕事量が増えていく中、+αの働きができなくなっている。

 親だって、仕事と家庭をギリギリ両立させている場合がほとんどなわけで、学校に電話をかけるのだってけっこう大変。その上、保護者同士のつながりも希薄になっているため、「これが理由で学校や〇〇さん家と揉めてしまったら嫌だなぁ」と躊躇してしまう。

 なんなら子どもだって、塾やら習い事やら部活やら忙しいから毎日を送っているかもしれず、陰口を言われるのが怖いなど心理的な懸念から相談なんてできないのかも。

 生徒も親も学校も、三者三様、問題を解決しようと思う余裕を失っている。こうしてトラブルが発生しないことをすべての大人が望む環境は形成されていく。そのことを知っているから、全員、自分がトラブルの第一発見者になるのを避けるため、見て見ぬフリをしてしまう。そして、いざトラブルが可視化されたとき、大人の論理で原因を追求してしまう。

 その際、当事者以外の人たちも入ってくるので、どんどんややこしくなってしまう。推測で加害者の人格を否定するとか、被害者にも落ち度があるとか、好き勝手に言い募る。

 とはいえ、大衆がそうなってしまうのにも事情がある。なので、一概にやめるべきとは簡単には言えない。

 公正世界仮説という考え方がある。人間の行いは公正な結果が返ってくるものと信じてしまう認知バイアスで、「罰があたる」や「正義は勝つ」の根拠となる価値観だ。

 例えば、性犯罪の被害者に対して、夜中に出歩いたり、露出の多い服を着たり、気をつけていないからそんなことになるんだ! と責めてしまう現象は公正世界仮説によるものとされている。また、成功している人は人並み以上の努力をしていると思ってしまうのも公正世界仮説。

 人間、理不尽なことは恐ろしい。なにも悪いことをしていないのに、ある日、突然、不幸になるなんて絶対に受け入れられない。だから、つい、因果関係があるはずと信じたくなってしまう。そうすれば、余計なことをしていない自分は幸福でいられると安心できるから。

 そういう意味で、公平世界仮説はメンタルヘルスを保つ上では欠かせない。あらゆる物事にビクビクしていては生活をまともに送ることはできないわけで、とりあえず、自分は大丈夫だろうと楽観視しておくことにメリットはある。

 ただ、往々にして、公平世界仮説は他人の批判につながってしまうので悩ましい。運悪く傷ついている人たちに対して、

「事故に遭ったのはどうせ歩きスマホをしていたからだ」「相手を逆撫でする態度をとるから変なやつに絡まれるんだよ」「ちゃんとしたものを食べていたら病気にはならなかったはず」

 など、追い討ちをかけてしまう。逆に、人間関係におけるトラブルの場合、一方のコメントだけ見て、相手方に対して、

「お前がパワハラしたに決まっている」「人の気持ちがわからないやつはいますぐ辞めちまえ」「社会的に殺してやる」

 など、ひどい言葉をぶつけてしまう。

 そうやって第三者の過剰な言葉が飛び交うことは、もともとの問題以上につらい場合も多く、被害者が被害を訴えられない要因となっている。また、被害を訴えた後、予想外の広がりに苦しんでしまう場合も多い。最悪、自分の被害告発が理由で相手を傷つけてしまった罪悪感から、精神的に病んでしまうこともある。

 このとき、第三者の人たちは公平世界仮説に基づいて、自分の平和を確保するために行動している。加害者にも被害者にも決定的な落ち度がないとしたら、いつ、自分が同じ目に遭うかわからない。そんな危険な世界で生きていくのは怖過ぎる。

 だから、誰が悪いのか、ちゃんと明らかにしておきたい。これは特殊な人間の身にだけ起きる特殊なケースなのだと定義することで、そうじゃない自分とは無関係な出来事なのだと処理したい。

 そのため、当事者がいくらメッセージを発したとしても、公平世界仮説で攻撃を重ねる人たちは止められない。被害者のためではなく、自分のために正義が悪に勝たなくてはいけないのだ。 

 加害者・被害者という言葉で「いじめ」を捉えてしまうことにそれは表れている。誰に責任があるのか確定させて、問題を個人に還元させようとしている。

 このあたり、先日投稿した『責任の生成』という本に詳しく書いてある。

 超要約すると、動詞を能動態と受動態に二分することの強引さを指摘し、その背景には律法制度があるという内容。なぜなら、人間の行為は本人の意志に基づき、能動的に行われるとしなきゃ、罪を罰することができなかったから。そのため、意志によって責任が生まれたはずなんだけど、実はその主従関係は逆かもしれないと國分功一郎さんは述べている。

本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。

國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』116頁

『娘がいじめをしていました』に漂うしんどさも、この意志と責任の幻想関係に起因している。いじめの責任を誰かが取るべきと考えが先にあり、いじめっ子には主体的にいじめようとする意志があったと後から理屈をつけているのだ。

 でも、この漫画に関して言えば、問題となっているのはそういう種類のいじめではなかった。クラス内の空気によって、能動態でも受動態でもない形で行われているものだった。その証拠にいじめの様子を撮影した動画をクラスメイトたちはエンタメとして共有していた。いつでも誰でも、いじめる側にも、いじめられる側にもなり得るわけで、より大きな問題として関わっている全員が自分事として向き合う必要がある。

 本当のところ、世の中は理不尽なのだ。そんなつもりがなかったとしても、思わぬことは起きてしまう。その事実を公平世界仮説で覆い隠して、トラブルが起きないことをよしとする社会はまったくもって健全じゃない。

 トラブルは起きるものである。大事なのはトラブルを早めに発見し、小さいうちに解決すること。目指すべきはゼロじゃない。気づかないフリをすれば容易に達成できる目標なんて、掲げるだけ逆効果だ。

 そのために我々はもっと余裕のある生き方をしなきゃいけない。先生が生徒間のトラブルを見かけたら、杞憂かもと思いながらも、両方の家に電話をかけられるぐらいの余裕。そのことについて親子で話し合えるぐらいの余裕。教室内でトラブルについて議論が交わせるぐらいの余裕。

 余裕がないと人間は怒ることでしか、トラブルと向き合えなくなってしまう。絡まり合った紐をほどくとき、急いでいるとムキーッと強く引っ張ってしまって、逆に難易度が上がったしまうのに似ている。そこは落ち着いて、ゆっくり、ゆっくり、交差した点をひとつずつ着実に解決しなきゃいけない。

 いじめは決してなくならない。だからって、いじめを肯定したいわけじゃない。なくならない以上、それが小さいトラブルで収まるうちに解決しようと言いたいのだ。そして、そのために大切なのは社会全体で余裕を取り戻すこと。

 そりゃ、酷いニュースを目にしたとき、誰だっていじめをしていた個人に責任があると思いたくなるよ! そいつのせいだと言いたくなるよ! 人間としておかしいし、平気な顔して進学したり、楽しい日々を送っていると聞いたら、気持ち悪くもなる……。

 この怒りをなかったことにはできない。できないけれど、それをどこにぶつけるべきかは冷静に熟考しなくてはいけないだろう。

 わたしはその怒りを政治に向ける。それが正解なのかはわからないけれど、社会構造を変えることでしか、この問題を解決できないと思っている。

 労働環境の改善だったり、教育カリキュラムの軽減だったり、クラス替えや転校の容易化だったり、各種制度の変更で減らせる問題もあるはずだ。スクールカウンセラーの権限を強くするだけでも、心理ケアによって早期解決できる問題もあるだろう。家庭環境に問題があるも疑われるときは、間違っていてもいいので、すぐに子どもを保護できる仕組みが導入されることで、救われる命は必ずある。

 どれもラディカルな改革なので、ひとっ飛びでは実現できないとわかってはいる。それでも、理想を持っていなければ、社会は永遠に変わらないから、バカみたいに理想を持ち続ける。

 幸いにも、日本はまだ民主主義国家である。建前として、主権は国民にあり、わたしたちの力でわたしたちの望む社会を作れることになっている。

 かつては致死率の高かった病気も、薬の開発によって、ただの風邪になってしまった。同様に、わたしたちの努力で、「いじめ」が簡単に解決できる社会を作ろうじゃないか。

 いじめは特別なことじゃない。いつ誰がいじめられてもおかしくないし、いじめる側になってもおかしくない。あまりに理不尽過ぎるから、できるだけ考えたくはないけれど、だからこそ、真剣に考えなくちゃいけないのだ。




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