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【読書コラム】受験に受かるということは他の誰かが落ちているということ - 『ルポ 無料塾 「教育格差」議論の死角』おおたとしまさ(著)

 十年前の年明け頃、子ども食堂に来ている中三生に勉強を教えたことがある。

 細かく事情は聞かなかったけれど、母子家庭で塾に通うお金もなければ、勉強をする習慣もなく、学校の内申はボロボロ。おまけに受験対策をほとんどやってこなかったので、高校進学が危ぶまれているとか。ただ、本人はとても素直な子で、まわりの大人が支援したいと動いた結果、知り合いを通してわたしに声がかかった。

 食事を提供した後の子ども食堂のスペースを活用し、週二回の授業を二月半ばまで続けた。四則演算すら不確かな状態だったので、合格最低ラインから逆算し、必要最低限の内容だけを教えることにした。理科や社会もぜんぶやるのは不可能だから、単元をしぼりまくった。英語と国語はいまさらどうしようもなかったので、頑張らないことにした。

 結局、その子は合格した。本人は、

「倍率が一倍ちょっとだったし、試験中に退席した人もいたし、凄いことじゃないですよ」

 と、言っていたけれど、顔はちゃんとニンマリしていた。たぶん、あくまで照れ隠し。とりあえず、よかったねとみんなで喜んだ。

 でも、自分の中ではほんのちょっとモヤモヤが残った。受験を突破するための裏ワザを教えただけ。勉強を教えたという感覚ではなかったからだ。

 小手先のテクニックで試験というシステムの穴を突けばなんとかなると、わたしは経験で知っていた。それがなぜなのか説明することなく、合格させるという目的を達成するため、一方的になにをやるべきか指示を出した。本人も受かりたいから言うことを聞いた。で、見事に作戦はうまくいった。

 結果は上々。だけど、主体性はひとつもなかった。

 もしかしたら、その子がその年齢で向き合うべき困難を奪ってしまったのではないかと不安になった。

 また、再現性のなさも気になった。たまたま、その子がその子ども食堂に通っていたから、合格法を伝授することができたけれど、歯車がひとつでも狂っていたら、こうなってはいないはず。ということは、その子と似た境遇の誰かは困ったままで、なんなら、その子が受かったことで高校受験に失敗している可能性すらあった。

 もちろん、だからって、困っているとわかっている人を助けない理由にはならないし、わたし自身、その子が高校に進学できたことはとても嬉しく、やり甲斐はあったと感じている。

 しかし、なんだかなぁと思わないではいられなかった。

 この悩みが普遍的なものであると最近知った。各所で話題となりつつある新書『ルポ 無料塾 「教育格差」議論の死角』で、無料塾をされている皆さんがぶつかる共通の問題らしかった。

 無料塾は年々増えているらしい。

 すっかり高卒は当たり前となり、現役世代の大卒割合が五十パーセントを超えてしまった現状で、進学のレールから外れることのマイナスはあまりに大きい。だからこそ、受験対策の需要は高く、いまや全国で塾の数は学校よりもはるかに多くなってしまった。

 そもそも、受験は一定の基準をクリアできる合格者を選ぶものではなく、成績順に並べて下から不合格者を選ぶもの。つまり、まわりが塾に通って対策をすればするほど、通えない子たちは不利になっていく。極論、みんなと同じことをしなきゃいけないゲームなのだ。

 従って、お金だったり、親の思想だったり、地域だったり、理由はともかくとして、塾に通えるか否かで教育格差が生まれる状況が生じてしまう。対処療法として、無料塾は有効なのは明らかだ。

 本書は実際に無料塾を主催し、長年に渡り運営されてきた方々のお話がいくつも紹介されていた。ご自身の経済状況に余裕があるわけじゃないのに、子どもたちのために頑張っている姿が見えてきて、とても胸を打たれた。

 だが、それでもみなさん、無料塾で受験対策をすることの矛盾にぶつかるようで、ここに日本の教育が直面している問題が浮き彫りとなる。

 先述の通り、受験は不合格者を選ぶものだから無料塾が存在することで、下のレベルが底上げされ、試験の難易度は変わらずとも、受験自体の難易度は上がってしまう。また、有料塾は無料塾と差別化する必要があるため、子どもたちの負担が全体的に増大せざるを得ない。一方、無料塾にアクセスできない子どもたちはどんどん蚊帳の外に追いやられ、教育格差の溝はいっそう深まる恐れがある。

 いっそ、有料・無料を問わず、塾というものを法律で禁止したらどうかという意見も出てきた。ただ、それをやった中国ではタピオカ屋のフリをした闇塾が登場したみたいだし、究極、制限はできないだろう。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。むかしは中卒だろうと、高卒だろうと、努力でなんとかなったのにと感じる人も多いはず。ただ、社会が成熟する限り、求められる基準がどんどん上がっていくことはブルデューの『ディスタンクシオン』に詳しく、実際、先進国はどこも同じ問題を抱えている。

 要するに、社会が成熟するとは既得権益が作られるということであり、それを守るために安定が望まれ、学歴や職歴など手に入れるのが大変なプロセスを経なければ、満ち足りた境遇を手に入れられない空気が醸成される。

 戦後の混乱期みたいに、誰もが一発逆転を夢見た時代はすべての人が革命を起こす側だった。それが高度経済成長期だったり、バブル期だったり、国全体で成長を享受した結果、革命を起こされて困る人たちの方が多数となってしまった。

 端的に言って、高校も出てないやつに成功されたら嫌な気持ちになる人が増えたから、中卒で生きていくのは大変なのだ。大学も出てないやつに成功されたら嫌な気持ちになる人が増えたから、高卒で生きていくのは大変なのだ。いい大学も出てないやつに成功されたら嫌だから、Fラン大学を卒業して生きていくのは大変なのだ。

 およそ、こういう負のスパイラルが繰り返されることで、先進国では子どもに豊かな暮らしをさせるために必要な教育コストが上昇し続け、必ず、少子化に至ると言われている。

 もし、格差がウイルスのように人間と独立した存在であったなら、根絶や共存を目指して努力できるけれど、どうやら人間の自尊心に付随した問題らしいので難しい。畢竟、誰か一人でも勝ち組になりたいと望む限り、負け組は生まれてしまう。いや、欲がある限り、序列はどこからでも生まれてくる。

 ソ連などの社会主義国家は制度で格差をなくそうとした。だけど、パンを買うなら上手に焼けたものを食べたいし、服を着るならかっこいいデザインのものを着たいし、せっかくならいいものを手に入れたいという気持ちがあるせいで、人気と不人気の差ができてしまう。

 仮に職業や収入を制限したとして、好きな音楽を選べるだけでも、一人一人の人生は変わってくる。究極、わたしがわたしである理由はこれまでの選択でしかない。わたしとあなたが異なる以上、なにかしらの格差は避けられない。故に、生まれてから死ぬまで、自由な選択が皆無であれば、勝ち負けのない世界が実現するのかも。だが、果たして、それは地獄か天国か。少なくとも、たった一度の人生を費やすだけの価値はないだろう。

 しかし、格差で苦しむ人がいる限り、それを必要悪で済ませることも絶対にできない。本書はそのことについて、どのような格差で有れば容認可能かという視点でアプローチを試みていた。

 他の人より運動神経がよかったり、勉強が得意だったり、歌がうまかったり、いわゆる特技の範疇で差を捉えられるとき、問題は生じない。ところが受験になった途端、どいう進路になるかで一生を左右する差が生じてしまう。この違いにこそ、格差が問題となる本質があるのではないかと言うのだ。

 この背景には会社の人事システムだったり、伝統的価値観のあり方だったり、複雑かつ複合的な原因が考えられる。しかし、いずれにせよ、どんな教育をしたとしても、その先に「労働」という単一な出口しかないせいで、勝ち負けの基準が「いくら稼げるか」という単純比較に陥る点が元凶なのは間違いない。

 思うに、勝ち負けの基準がたくさんあれば、状況は変わってくるのではなかろうか。別にそれで食えなくても、演劇をするために人生を演劇に費やしたっていいじゃないか。永遠にアマチュアバンドだったとしても、死ぬまでロックができれば幸せじゃないか。それこそ、ただ書きたくて、こんな風にnoteの記事を書き続けることに意味が見出せれば、わたしは相当な勝ち組だ。

 無料塾の中には、受験勉強もしつつ、課外活動に力を入れているところもあるらしい。現行の社会で生きていくために、寄せなきゃいけない部分はあるけれど、子どもたちに人生はもっと多様なんだと知ってもらうためなんだとか。

 なるほど、たしかに無料塾は矛盾を抱えているのかもしれない。それでも、その意義は絶対に否定できない。

 調べたら、うちの近所にもあるっぽい。年明け、ボランティアに申し込むか、いま、真剣に迷っている。




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