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【ペライチ小説】_『娘帰る』_18枚目

 さらにわたしは父親を責めた。今度は傷つけるためにこそ、そう言った。

「なんでお前にわかるんだよ」

「源泉、見たから知ってんの。むかし、写メで送ってくれたの忘れた」

 瞬間、父親の顔面が内側から加速度的に歪んでいった。その変貌は凄まじく、ギギギッと音を立てているようだった。いや、本当に音を立てていた。ゆっくりとだが唇の端からぶくぶくと唾液が溢れ出し、重たい口を開こうとして口輪筋が激しく痙攣、うるさく軋みだしていたのだ。さらに、そんな汚いノイズに交じりつつ、微かに言葉が聞こえた気がした。それは人間の耳朶では受け止めきれぬほど弱々しい振動だった。かろうじて、

「ア・エ・ウ・ア・オ・オ・ウ・オ」

 と、それぞれの母音が認識できる程度の微かさだった。あまりに判然としないので、「ちゃんと聞こえるように発音しなさいよ」と、文句のひとつも言ってやりたかった。だけど、どうせ、五十年生きたプライドを盾にして一方的に怒鳴りつけてくるに決まっていたから、わたしはなんとか自分を抑えた。その代わり、心の中でこんなことを思った。

「悪いけどわたし、すでにお父さんより稼いでるから」

 あるいは口に出していた。たぶん、それがきっかけだったのだろう。父親はさっきの言葉をゆっくり丁寧に繰り返した。

「ナ・メ・ん・な。コ・ロ・す・ぞ」

 父親はもう父親であることを放棄していた。顔面は大きくひしゃげ、化物みたいにこっちを見ていた。散々責められてしまった人間の行き着く先として、それはあり得べき反応だったのかもしれない。なるほど、罪悪感に襲われた。

「ごめん。言い過ぎた」

 わたしは素直に謝った。すると、父親はしばらく鼻息荒く深呼吸を繰り返してから、

「まあ、いいよ」

 と、ぶっきらぼうに答えてくれた。

「でも、これだけは言わせてくれ。年収がどんなに低かろうと俺はちゃんと働いてきた。一生懸命、朝から晩まで働いてきたんだ。そのことをバカにされるのはどうしても我慢ならない。お前はまだ若いからわからないかもしれないけれど、誰もがいろいろなことを犠牲にし、なんとか給料稼いでるんだ。たとえ微々たる金額でもな。それぐらい想像できるようにならなきゃダメだぞ。社会人として。人間として」

 それはありきたりな説教だった。感動なんてするはずはなかった。なのに、なぜか涙があふれ出てきた。もちろんちっとも悲しくなかった。むしろ妙に冷静で、わたしは「やっぱり、人間の身体の八割が水って本当なんだなあ」などと場違いなことさえ考えていた。



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