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【68‘メキシコ学生運動】今だから聞ける当事者の貴重な話《前編》

はじめに

20世紀以降のメキシコの歴史において大きな転換の年となったのが1968年だ。
1968年は、ラテンアメリカ史上初となったメキシコ五輪、そして今回のテーマでもあるメキシコでの学生運動が起こった年だ。
日本でも全共闘などの学生運動が60年代に起こり、世界中でも学生運動が起こったようにメキシコでも社会主義や共産主義をベースとした学生運動が起こったのだ。

そんなメキシコでの学生運動。その名を世界中で瞬く間に有名にしたのが、トラテロルコの大虐殺という事件だ。
学生運動家達は世の中をより良いものにする為に、当時の政府に平和解決でデモを行なっていたのだがそれに対してメキシコ政府は軍と警察を動員して200人から300人もの罪もない学生と民間人を殺害したのだ。

事件の詳しい内容は、こちらのwikipediaのサイトから☝️

今回は1968年10月2日の夕方、その事件を実際に経験して現在は「メキシコの68年の学生運動」という授業をメキシコ国立自治大学(UNAM)で行なっている「Cristina Gómez Álvarez/クリスティーナ・ゴメス・アルバレス教授」にお話を伺った際の話をまとめてみた。
(その時に書いたメモを元に📝)

先生の詳細はこちら☝️


先生の話は大まかに分けて以下のことが話された。

*前提知識
*学生運動の本当の意図
*トラテロルコが世界的に注目される理由。
*歴史本の在り方
*学生活動家のその後、そして 1982 年の出来事
*68 年 10 月 2 日の実体験
*先生が今でも忘れることのできない二つの出来事。
*今でも学生運動は続いている。

今回は、前編ということで「前提知識」「学生運動の本当の意図」の二つについてまとめた。


*前提知識

1968 年 10 月 2 日にトラテロルコで起こった惨劇を真に理解するには、その時代の世界の背景や歴史を知らなければならない。
例えば:キューバ革命、ラテンアメリカの国々での独裁政治、冷戦、ヒッピーetc…

先生おすすめの本
『Historia del siglo XX』 Eric Hobsbawm 著

現在、多くの人々は現在の学生たちは何故自分たちの未来のために活動しないかと疑問を呈しているが、それは彼女たちが生きていた時代がそうであったから。
その時代は現在のように簡単に仕事を探すことは非常に困難であった。
そして、高等教育課程を終了したら何かしらに職に就けることができたらラッキーな時代であった。

その現状を打破するために、当時の若者たちは立ち上がって政府へストライキをすることにした。
そして、その時代のメキシコには政治思想が社会主義か共産主義しかなかったから、人々の思想のベースは社会主義・共産主義であった。

「当時は PRI 率いる右派政権(やや中核派でもあるが)が政権を握っていたため、それに対抗するために左派思考が強かったのか??」

*学生運動の本当の意図

現在、68 年のメキシコにおける学生運動を問われると多くの人々がトラテロルコの大虐殺を真っ先にイメージするが、そもそもの学生運動の意図を理解しているものは少ない。当時の学生たちが学生運動を起こした理由はいたってシンプルなのだ。

その理由とは、第一に民衆の生活をより良いものにするための抗議。
第二に、政治に少しでも関わった人々(共産党員、ジャーナリスト、学生運動家)が冤罪により長期間に渡って逮捕されていた。その逮捕理由の弁明と逮捕者の解放であった。
そして、このシンプルな学生運動に対して政府が出した解答は武力行使による騒ぎの鎮圧であった。
政府にとって、国民が数百人程度死ぬことなど痛くもかゆくもないのだ。どこの国でもあることだが、民衆が革命や騒動を起こすたびに政府は暴力で解決しようとする。

しかし、メキシコ革命で政府が主導者であるイダルゴを殺しても、革命が再加熱したように実際には民衆の憎しみが生まれさらなる革命の火種が生まれるだけなのだ。

メキシコにおける学生運動とは、68 年の学生運動以外にも 66 年に行われていてその事例は成功に終わったようだ。 当時、メキシコ国立自治大学(UNAM)では学士課程から修士課程に進級することはとても難しく、進級試験に高得点が求められ学生たちは博士課程に進むことができなかったのだ。

そこで、学生たちはUNAMに対して中級の点数でも博士課程に進級できるように抗議した。その結果、UNAM が要求を飲んだことで多くの学生が博士課程に進むことができストライキは成功に終わった。
このように、当時は自らの環境を変えるためには行動に移す必要性があったのだ。

それと同様に、68 年の学生運動は始まった。
最初の動機は学生たちがサッカーボールを行っていたところ警察が学生たちを暴行したところから始まる。 それに対して学生たちはストライキを起こし、それが膨らみ学生運動の最終目的は、メキシコシティの中心であるソカロ広場で抗議活動をすることになった。

生徒達が 68 年の学生運動で政府に対する要求は 6 つあった。

① 1959 年からの冤罪逮捕者の解放。
② 「※Granadero」武装警察の撤廃。
③ Granadero の組織リーダーの退任。
④ 1940 年に作成された「Artículo 40/40 年の公文書」の削除
(1940 年代に共産主義者であった人たちや政治に関わっていた人々の名簿。これを基にし
て、人々を冤罪で逮捕・勾留していた。 )
⑤ 冤罪逮捕者やその家族に対しての経済的支援や保証金
⑥ 誰が、学生運動に対して暴力で制裁したかという情報開示

Granaderoをサルに見立てた絵を持つ学生。(AHUNAMより)

【※Granadero とは;市民の暴動を鎮圧するために、催涙ガス手榴弾(granada)を投げるだけではなく、警棒、盾、水を放射する戦車を使用する警察隊員の事。
これに対して、政府はいずれの要求も飲まず暴力で制裁してトラテロルコの惨劇へとつながっていく。先生は「Solo era una huelga…/ただのストライキだったのに」とおっしゃっていた。】

トラテロルコの資料館に行くと、実際に使用されていた置物もある。(Centro Cultural Universitaria Tlatelolcoにて撮影)

後編へと続く、、

前編の今回は、メキシコの学生運動の簡単な説明と学生運動が起きた理由についてまとめていきました。
後編では、事件の日の実体験の話をはじめとして、先生が語られた壮絶な内容がより具体的にまとめられています

後編はこちらから☝️

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