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#後藤新平

和樂webで掲載~高峰譲吉の交遊関係

和樂webで掲載~高峰譲吉の交遊関係

科学実業家の高峰譲吉。実は、交友関係がすごく広いのです。

<大隈重信> 少年時代長崎に留学していたころ、佐賀藩の藩校「到遠館」(ちえんかん)で学びました。ここで、現代の副校長に相当する立場で勤務していたのが、内閣総理大臣大隈重信。「高峰譲吉に英語を教えたのは、私だ!」と後年(鼻高々で?)言っていたそうです。

<高橋是清> 譲吉の社会人のスタートは、農商務省工務局。ここで特許行政に関わります。初

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後藤新平こぼれ話~検疫のパートナー陸軍の児玉源太郎と、医師北里柴三郎

後藤新平こぼれ話~検疫のパートナー陸軍の児玉源太郎と、医師北里柴三郎

たった2か月で!帰還兵23万人のコレラ検疫を実現。偉業を成し遂げた後藤新平ですが、一緒に頑張った仲間がいました。

1894(明治27)年、日清戦争。当時大陸ではコレラが蔓延しており、罹患した兵士が日本各地に帰郷しては、大パンデミックに!!

陸軍次官の児玉源太郎は、これを阻止すべく検疫をしなくてはと考えていました。そのときに候補になったのが、後藤。1877(明治10)年、西南戦争でコレラ患者の治

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後藤新平こぼれ話~暴漢に襲われた板垣退助を手当

後藤新平こぼれ話~暴漢に襲われた板垣退助を手当

和樂webで掲載された、後藤新平に関する記事。

業績や肩書が多過ぎて、泣く泣く排除したエピソードもたくさんありました。

その中の一部を紹介します。

医師として,名古屋市で活動していた後藤。
1882(明治15)年、岐阜県で自由党総裁板垣退助が暴漢に襲われます。後藤の元に、手当の依頼の電報が届きました。自由党員は危険分子扱いをされていた時期で、反対意見もありましたが、「人命を救うのが医師の仕事

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和樂webで掲載~迅速な感染症対策と震災復興、後藤新平の人生

和樂webで掲載~迅速な感染症対策と震災復興、後藤新平の人生

1894(明治27)年の日清戦争後、帰還兵の検疫を水際で行い、コレラの感染を抑えた医師。1923(大正12)年、関東大震災後の東京復興を唱えた政治家。この2つとそれ以外にも現在につながる多くの業績を残したのが、後藤新平(1857~1929年)。

現在私たちが直面している問題に、彼はどのように挑んだのか。今だからこそ是非読んでいただきたいと思い、記事にしました。

といいつつ、私も知ったのは最近で

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