後藤新平こぼれ話~暴漢に襲われた板垣退助を手当
和樂webで掲載された、後藤新平に関する記事。
業績や肩書が多過ぎて、泣く泣く排除したエピソードもたくさんありました。
その中の一部を紹介します。
医師として,名古屋市で活動していた後藤。
1882(明治15)年、岐阜県で自由党総裁板垣退助が暴漢に襲われます。後藤の元に、手当の依頼の電報が届きました。自由党員は危険分子扱いをされていた時期で、反対意見もありましたが、「人命を救うのが医師の仕事」と意に介さず。周囲が混乱する中、冷静に治療をしました。まず板垣に伝えた言葉が、「ご負傷なさって本望でしょう」当時まだ20代ですが、肝座っていますね。
後藤の頼もしい姿を見て、板垣は「政治家になれば、かなりのものになるだろうに」と呟きました。ちなみに、板垣は武道の達人で(若い頃の写真は、やさ男っぽいですが)急所は外れており、全治1週間ほどの負傷だったそうです。
さらに「板垣死すとも自由は死せず」の有名なセリフですが、これは本人が言ったかは疑わしいそうで。
ただ、私は日本史の授業で、このセリフと「遭難」の説明で、「死んじゃったの?でも死去とは書いていないし」と混乱しました。「軽傷だった」と加えて欲しいです。
話が逸れましたが、これにより、後藤は医師として広く知られるようになりました。
日清戦争後に、大規模検疫を実施するのは10年少し先のことです。
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