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ライターのお仕事

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2021年9月の記事一覧

取材者さんから感謝されること。ライター冥利に尽きます!

取材者さんから感謝されること。ライター冥利に尽きます!

保育士の転職。気が付けば15名の方に取材。

※画像は、喜んでいる私の気持ち。

「取材者さんは自分で探してください。時間かかってもいいから」と編集長からの愛のムチを受け(←この程度で、パワハラとか言わないように)、知り合いに紹介してもらったり、ネットで「元保育士」の肩書のある人を探したり。ほぼ自力で取材許可をいただきました。

最初の私の思いは、「転職を考えている保育士が、一歩踏み出せるようにな

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保育園まるごとランキングで掲載されました~他業種から保育士、そして保育・子育てプロデューサーへ

保育園まるごとランキングで掲載されました~他業種から保育士、そして保育・子育てプロデューサーへ

保育士の転職体験。今回は、他業種→保育士→保育・子育てプロデューサーになられた方に取材をしました。

保育士になるまでも、教員を目指したり、販売員やIT企業で働かれたりと、さまざまな経験をされている方で、だからこそ視野が広いのです。

子ども・保護者・保育者それぞれ立場に寄り添った活動を、されているなと。保育士の中には、「子どもファースト」の余り、保護者・保育者はどこにいったんやーという方もいるの

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後藤新平こぼれ話~検疫のパートナー陸軍の児玉源太郎と、医師北里柴三郎

後藤新平こぼれ話~検疫のパートナー陸軍の児玉源太郎と、医師北里柴三郎

たった2か月で!帰還兵23万人のコレラ検疫を実現。偉業を成し遂げた後藤新平ですが、一緒に頑張った仲間がいました。

1894(明治27)年、日清戦争。当時大陸ではコレラが蔓延しており、罹患した兵士が日本各地に帰郷しては、大パンデミックに!!

陸軍次官の児玉源太郎は、これを阻止すべく検疫をしなくてはと考えていました。そのときに候補になったのが、後藤。1877(明治10)年、西南戦争でコレラ患者の治

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後藤新平こぼれ話~暴漢に襲われた板垣退助を手当

後藤新平こぼれ話~暴漢に襲われた板垣退助を手当

和樂webで掲載された、後藤新平に関する記事。

業績や肩書が多過ぎて、泣く泣く排除したエピソードもたくさんありました。

その中の一部を紹介します。

医師として,名古屋市で活動していた後藤。
1882(明治15)年、岐阜県で自由党総裁板垣退助が暴漢に襲われます。後藤の元に、手当の依頼の電報が届きました。自由党員は危険分子扱いをされていた時期で、反対意見もありましたが、「人命を救うのが医師の仕事

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和樂webで掲載~迅速な感染症対策と震災復興、後藤新平の人生

和樂webで掲載~迅速な感染症対策と震災復興、後藤新平の人生

1894(明治27)年の日清戦争後、帰還兵の検疫を水際で行い、コレラの感染を抑えた医師。1923(大正12)年、関東大震災後の東京復興を唱えた政治家。この2つとそれ以外にも現在につながる多くの業績を残したのが、後藤新平(1857~1929年)。

現在私たちが直面している問題に、彼はどのように挑んだのか。今だからこそ是非読んでいただきたいと思い、記事にしました。

といいつつ、私も知ったのは最近で

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