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幕間:ナチスが哲学・思想に与えた影響

最近、小難しい文章が多くなっていますから、ラフにいきますね。ラフであってもある程度知っておくことで、それぞれの哲学者の問題意識の理解に役立つと思っています。

 哲学者紹介の記事も時代が進み、第二次世界大戦前後に生きた哲学者を取り上げているところです。この後もしばらくそれが続くわけですが、広くは第二次世界大戦、狭くはナチスドイツが与えた影響を、主に哲学関係にフォーカスしながらまとめてみます。この時代の哲学者に共通する「時代背景」という位置づけです。
 もちろんそれ以外の背景もあるでしょうし、ナチスに限っても網羅はできません。また、共通ゆえ一般論の側面もあります。特定の哲学者にとってのトピックスはその都度、言及します。

 ナチ党……正式名称、国家社会主義ドイツ労働者党。この名称がすでに多くのことを語っています。

民主主義における正当な選挙で第一党となった

 クーデターや権謀術数によってヒトラーが首相になったわけではありません。きちんと議席を獲得し、第一党になり、その後に首相に任命され、内閣を成立させています。今も続く民主主義の正式な手順です。
 つまり、ナチの出現を民主主義で防ぐことはできません。民主主義ならとりあえず国際的な理屈が通用するよね、といまだに前提されていますが、全く根拠がないってことですね。
 また、当時の知識人は、(ナチ党を支持した)いわゆる「大衆」に対する見方を変える必要を感じたことでしょう。

お手本になる福祉国家を運営した

 福祉国家の逆は夜警国家ですね。ようするに国として安全保障とかの最小限の機能だけ果たして、あとはみんなでやろうね、というのが夜警国家です。福祉国家は、理屈としてはそれ以前からありましたが、世界大戦中に制度として実効的なものになりました。なんせ戦争していますからね。国民を大事にしようと、どの国も思うわけです。
 ナチス・ドイツは、雇用の創出年金制度保険制度など、いまでは当たり前になった国家の社会への良い介入のお手本となる国家運営をしました。だからこそ、一瞬第一党になったわけではなく、国民から指示され続けたんですね。ここの部分は、直接は、哲学・思想に関係しませんが、他の特徴と蜜に関係していることがらです。

科学の力を示した

我がナチスの科学力はァァァァァァァアアア 世界一ィィィイイイイ」……ってことです。
 世界大戦は自然科学の力の戦いでもありました。国家が巨額の投資をし、科学の成果が直に戦争の道具になったんですね。もちろん、ドイツにかぎりません。物理学の叡智が、原爆、水爆を生むわけです。
 (数学なり物理学なり)自然科学の合理性を基礎にしてきた哲学は、この現実をどう解釈するんでしょうね。少なくとも、そういう合理性を頼りにするには「言い訳」が必須になったということです。
 あと、もっと一般的に科学と技術は人類の進歩に役立つ……とは言えなくなりましたね。これは今では常識ですが、以前はガチでそう思っていた哲学者たちがいたわけです。それは時代の制約ですから別にいいんですけど、現代でそういう哲学者の言ってることをそのまま使う(理解する)のは、時代錯誤だよってことですね。言葉の意味が変わっているわけですから。

民族主義・人種差別・ジェノサイド

 ナチスの野蛮といえば、まず最初に思い浮かぶことだと思います。でも、冷静に現在を見てみると何一つ無くなってなくないですか。ジェノサイド(民族浄化)で検索してみてください。どことはいいませんが、今、正義の戦争をやってる国だって過去にジェノサイドしてますしね。
 大きな話としてはジェノサイド。相対的に小さい話としては人種差別。それらがいけないことと言われているのに、ちっともなくならない。というよりも、ホルクハイマーとアドルノが言うように、それが理性の帰結だとしたら、私たちはほんとに理性の世界からでてないんだなと思います。

悪の凡庸さ

 アーレントの『エルサレムのアイヒマン』が有名ですかね。映画もこの場面が取り上げられてましたっけ。
 ポイントは、すっごい悪いことをする人は、すっごい悪い人ではなくて、ごく普通の人ということです。あるいは、普通の人が環境によっては極悪人になりうるということですね。
 一気に現代に近づけると、会社の不祥事とかで――検査数値をいじるとか――ドストレートに顧客を裏切るようなことをしている人は、普通のサラリーマンですよね。その場合(アイヒマンと同じように)裁かれるべき責任者は誰なんでしょうか。……そもそも責任者が存在しないようにつくられているのが組織なんでしょうか。この点も、全くナチスの時代と変わっていません。

全体主義・社会主義

 ここでフォーカスされる人物像は「労働者」です。アーレントが「労働」に低い評価を与える直接的な理由ですね。社会主義というのは、(手厚い)福祉国家とセットなわけですけど、それが共産主義のもとであれ、民主主義のもとであれ、全体主義に転じるのは小さな一歩という事実ですね。じゃあ、そうならないように新自由主義(小さな国家=夜警国家)の方がいいですか、というとまぁ、ひどい目に合いましたしね。世界的にひどい目にあったもんだから、グローバリゼーションから国家への揺り戻しがきてるのが現在ですけど、そうすると、また全体主義に近づいちゃうわけです。
 思想としては、(ちゃんとした)社会主義が理想だ、って思ってた学者は多かった時期がありました。まぁ、単純に違ったねということでしょう。文学としては、ユートピア、あるいは反転してディストピア文学の題材提供になりましたけど。
 あと、マネジメントの世界ではエンゲージメント? ま、ようはチームとか組織とかへの帰属意識の文脈で「ホールネス(全体性)」ってのが注目されています。これ、規模を小さくした全体主義と何が違うのか、分かる人はおしえてください。

哲学が果たした役割

 当時の事実として、バラバラにされたニーチェ哲学。そして明確にコミットしたハイデガー。ばっちりナチスに関与してます。ニーチェ哲学をナチスに気に入るように取り計らったのは妹のエリザベートです。ヒトラーは何度もニーチェ文庫を訪れましたしね。ヒトラー本人はあんまりニーチェを読んでなかったみたいですが、少なくともドイツ国民は、ニーチェの優生思想っぽいところに共感を示したでしょう。で、この優生学っていうのは、福祉国家とか民主主義の中でこそ実行されてきたというのが事実です。かつ、現代もその延長線上にガッツリいます。
 ここは単純に、世界ではなく身近な日本で考えましょう。会社で、あるいは大きく社会で、どれだけ病人や障害者が邪魔者扱いされていることか。積極的な攻撃はなくても、あからさまに中心から排除されていますよね。これは、暴力ですよ。
 そういうことの源流に哲学があること。それをなんか、脇にどけといて、抽象的な思想としてだけ扱うというのは、哲学で遊んでいるってことです。ハイデガーは直接的でした(戦後もまったく反省しないことにレヴィナスはキレてました)が、科学的思考や合理的思考が真理であるとした実証主義の連中なんか、もっと直接的にナチスの原因です。

さいごに

 民主主義、大衆、国家、民族、普通の個人、全体主義、そして哲学。これらに対しての何らかの「不信や絶望」への反応。それが、大戦を経験した哲学者それぞれのテーマ設定に関わっていきます。
 一方で、私たちが仮に「不信や絶望」におちいっていないとして、上に書いたようなことを克服しているわけではない、ということ。ちょっと、真面目に考えないといけないことです。


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