見出し画像

まだ見ぬ子どもに幸せの責任を押し付けちゃいけない

過去の自分を振り返ると、当時は必死だったけど、どう考えてもおかしい行動を取っていたと思うことがある。

前の夫との関係が危うくなり始めた時、どうにか改善したいよねと一緒にできる趣味に取り組んでみようということになった。それまでやったことのなかった海のスポーツ、陸のスポーツ、散歩、料理、色んなことに手を出してみた。試みはよかったと思う。なんだか使命感みたいなものを共有して、瞬間瞬間は同じ方向を向いてみた。でも本当は、どれも心からは楽しめてなかった。彼がどう思っていたかはわからないけど、私には「一緒にいるために、一緒にいる時間を楽しいものにするために、楽しいと思ってもらわなくちゃ、一生懸命楽しまなくちゃ」という切羽詰まった思いで焦っていた。

彼のことが盲目的に好きだった。自分にないものを持っている彼は眩しくて、思考回路が読めない突飛なところが素敵だと思っていた。出会ってから何年経っても好きで仕方ない彼のことをどうしても手放したくなかった。彼の心が離れてつつあるのはうっすら感じていたけれど、私との時間を楽しそうに過ごしていることや一緒に美味しい料理を食べたことにいちいち希望を見出しては、気持ちがまた戻ったと安堵するような綱渡りだった。彼はどうだったんだろう。

振り返ってみても盛大に矛盾していると思う。せっかく結婚した彼を手放したくなくて、全然冷静じゃなかった。気持ちがひとつじゃないのは一時的なもので、時間をかければまた元に戻れると信じていた。信じたかった。

そして心に浮かんで縋ってしまったのが、「子どもがいればふたりの仲もうまくいくんじゃないか」という考えだった。

子ども。そんなことになる前には一度子どもがいる未来が見えかけたこともあった。なのになかなか新しい陽性はやってこない。排卵日検査に躍起になり、関係が不安定なのに「今日」と迫る私は、彼の目にどう映っていたんだろう。協力的な時もあった。拒まれた時もあった。書いていて、自分でも当時の自分が怖い。どうかしていた。

当たり前と言えば当たり前だけどうまくはいかず、彼とは終りを迎えた。

子どもは私が幸せになるために生まれてくるんじゃない。その子にはその子のための大切な人生がある。当時の私は必死すぎてそんな当然のことを見失っていた。いや、わかってはいたけど見ないようにしていた馬鹿だった。


その後縁あっていまの夫と再婚することになり、過去のことは全て何度も話している。もちろん、不仲を繕うために子どもが欲しかった浅はかな私のことも話す。夫は肯定も否定もせずいくらでも話を聞いてくれる。夫は良くも悪くも子供を持つことを過度に期待していない人で、その冷静さに私は救われている。

いま不妊治療をしていて、「子どもが生まれたら幸せな人生になるというのは違う」と意識的に考えるようにしている。まだ先の人生を、手に入れていない不確かなものや、子どもに期待して依存しちゃいけない。もしも子どもに恵まれたらすごくラッキーだけど、いまここにあるのが私の人生だから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?