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今日

もう他界したが、父は、広島の出身だった。その縁で、私の本籍は広島である。今でこそ免許証に本籍は記載しない。だが昔は、免許証を見せると広島出身かとよく聞かれた。実は、私は、広島に住んだことは無いのである。

父にしても、幼少の頃に満州に渡り、子供時代の思い出話は満州の話である。父が広島に住むのは、旧制中学の時代からだったと記憶している。そして大学を出て就職するまで広島に住んでいた。

本家が広島にあり、よく広島には旅行に行った。父方の親戚はほぼ広島の人なので、広島なまりには親近感がある。私の好物の代表格は、穴子と牡蠣。これも広島にゆかりがある。そして私は就職してからも、広島には縁が非常にたくさんあった。広島の担当をしていた時代が長く、広島出張には数え切れないくらい行った。

母も既に他界したが、母は広島があまり好きではなかったように思う。何度か本籍を変えようとしていたことは事実である。まだ父が存命のときも、一度父と言い合っている場面に遭遇した。そして私が結婚するときも、本籍を広島にするのではなく、現住所にしたらいいのではないかというお節介な助言をくれた。父が他界してからすぐ、本籍地を変えることにこだわった発言をして私と兄が困ったことを思い出す。

私と兄は、広島に対して特別な感情を抱いている。そして逆に、本籍地を広島にし続けることを2人で宣言している。家内は、それに疑義を唱えたことが何度かあるが、結果的に私はそれに耳を貸さなかった。

父の実家は市街地から少し離れていて、直接被曝はしなかった。だが、何度も聞いた思い出話によると、当日、父は市内中心地の耳鼻咽喉科にいくはずだった。だがたまたま地元の違う病院に行き、難を逃れたのである。学友や知人が多数犠牲になったと聞かされた。

体の弱い俺なんかが生きているのは、ただの偶然だ。

と、口癖のように何度も何度も言っていた。

広島平和記念資料館にも何度も足を運んだが、最初に訪れたとき、兄が展示物にショックを受けて動かなくなり、母がひどく心配したのだという話を父に聞いたことがある。母の広島嫌いは、そういうところにも起因しているのかも知れない。


ある日突然、日常が奪われるということは悲劇である。しかも戦争という人為的なもので、公然と民間人の大量虐殺が実行されるということには到底私の理解や納得が追いつかないのである。永遠に。

でも、戦争というのは、そういう理解し難い悲劇のことなのだ。悲劇は、戦争以外にもたくさん存在する。だが少なくとも、人として避けられる悲劇は、避けたいものだと痛切に思う。

私は、そもそも、おちゃらけた人間である。だが、私なりにいろいろな思いを重ねて来た中で、一年に一度、8月6日という日だけは、真面目に、生きている奇跡を味わうことにしている。

スマホが、ブルブルと振動した。今日は、家内の母の誕生日なのだ。我が家と義母のグループLINEには、「おはめでとう」のコメントやスタンプが並んでいる。確認しているうちに、黙祷の8時15分になった。

いろいろなことがあるが、生きていることは、偶然であり奇跡であると、私は思っている。そしてその奇跡が、ありふれた日常が、世界中の人々、生きとし生けるものに、ずっと訪れるようにと切に願っている。

頬を、知らず知らずに、暖かいものが流れてくる。

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