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学芸会

私の、保育園時代のお話を、ひとつ。

とは言っても、遠い遠い昔の話だから、さすがに、きちんと覚えているわけではない。断片的に、記憶があるだけだ。それを、最近になって思い起こすことがあったものだから、ほんの少し、書いてみようと思う。

私の通っていた保育園は、まずまず、立派な保育園だったと思う。先生たちも優しく、面倒見が良かったし、子供の数も多く、行事もたくさんあったように思う。

我が家が、母方の祖父母と同居していたのは、私が年長に上がる前までだったから、その保育園に通っていたのは、2年くらいだったのではないかと思う。

その短い記憶の中でも、ときどき思い出すのが、学芸会だ。

1度目は、ヨゼフの役だ。イエスキリストの、父である。シーンは、人形のキリストを抱いたマリア役の女の子と一緒に舞台に出て、空を指さす。台詞があったかどうかは、記憶に無い。ただ、出番は、短かった。

私は、頭に黒いバンダナを巻くのが嫌だった。友達に、冷やかされた。そして、小心者なものだから、みんなの前で演じるのが億劫で、なかなか、舞台に出ていけない。先生に、お尻をつつかれるようにして、嫌々、出た覚えがある。

そして、2度目は、ネズミの嫁入りの話だ。私の役は、ネズミのお嫁さんに、花婿候補の中で最後にフラれる、壁役だった。壁の役だから、壁の着ぐるみというか、壁を持って、顔を穴から出して演技をしたと思う。

その、壁から顔を出すのが格好悪くて面倒だったのと、どうせならば、フラれる役ではなくて、結婚できる、ネズミの役がいいと、これも、嫌々やっていたような、ぼんやりした記憶が、ある。


この歳まで生きてきて、ぼんやりと、思うのだ。私の人生って、なんだったんだろう、と。

家族にも恵まれ、幸せでは、ある。それは、心から感謝をしている。こんな、幸せな人生は、そう、ない。

だが、私として、このまんまで、良いのだろうか……。自分だけが良いのではなくて、ほんの少しでも、人の役に立つ生き方は、なかったのだろうか。

まだ、人生、終わったわけではない。そうではないだけに、どうしたものかと、ぼんやり、考えるのである。

このまんまで、いいのか……。

いつも、心の奥底を覗いてみると、どこか、投げやりで、躊躇している。


三つ子の魂百までと言うが、いまだに、私は、それほど、成長していない。


ここまで書いてみると、どこかから、声が聞こえた。

心の中の、リトルkojuroだ。

なあ、コジ、それって、オレのこと?

いやいや。俺とお前は、どこまでいっても、一心同体だよ。リトルコジ。

そうか、なら、良かった。

こうやって、今夜も、独り善がりの反省会は、中途半端に終わる。

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