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命を大事に≠死を拒絶

「命は大切」という価値観が独り歩きした結果なのか、「とにかく生きてさえいればいい、死ぬのだけは絶対ダメ」的な考え方の人を見かけることがある。
命が大切であることには自分も異存ないが、「生」信者、「死」アンチのような態度はいかがなものか。‪「命を大切にする」というのは死を拒絶することではないと思う。

ではどういうことかというと、個人的には「命を大切にする」というのは「前向きに生きること」あるいは「前向きに死ぬこと」みたいな感じだと思っている。その結果死に歩み寄ることも選択として当然あり得ると。
別の文脈で見かけた言い回しではあるが、同じ「死」にしても「死んだ」というより「生きた」とでも言うべき在り方。「全うする」といった言葉も近いかもしれない。

そのため、場合によっては延命しないことや自殺も「命を大切にする」に含まれ得ると考えている。生を投げ出すのではなく、死を迎え入れるような選択。人生における究極の自己決定として有終の美を飾る自殺——。惰性や義務感で生きるのよりもよほど命を大切にしていると感じる。

「命を大切にしたいから死ぬ」、そんな選択があっていい。これも命への向き合い方のひとつだと自分は思う。別に自殺を推奨するわけではないが。

だから自分はただ生命活動を続けることには拘らないし、死は常に選択肢のひとつとして傍にある。なお、これは準備万端でいつ死んでもいいということではない。まだ死ぬ準備はしておらず、死を選択してから準備をするイメージ。
自分は今幸せで、まだやりたいこともあり、当面は生きていたい。「今死にたい」などと思ったことはないし、ここまであらゆる場面で「生」を選択してきた。

ただし、今後もそうかであるかは不明。そのうち人生に満足するなりある程度の見切りをつけるなりして人生を畳みに入る可能性は十分にある。
例えば、自分は仕事が嫌いなタイプなので、仕事をやり切って老後に悠々自適……というよりも、早めに仕事を辞めて浮いた時間分人生を前倒し・凝縮みたいなことをするかもしれない。同じ自由でも健康で体力があった方がより楽しめるだろうし、長生きを前提としなければ今時点の資産だけで悠々自適な生活も可能。

生きたければ生きればいいし、死にたければ死ねばいい。
よくある言い回しとして「人生には辛いことがたくさんある。それでも人は生きていかなければならない」みたいなのがあるが、これには違和感を覚える。なんで義務感に駆られているんだろうと。

自分は、命とは何かを為したり享受したりするための最たる基盤……手段寄りのものでありだからこそ大切であると捉えているので、「とにかく生きなければならない」「生きてさえいればいい」的な考えは「手段の目的化」のようにも見える。その命でどうしたいか・どうなりたいかもなく、「命」そのものが目的になってしまっている。同様に、惰性で生きるというのは目的を失ってしまっている。自分にはそんな後ろ向きな生き方が「命を大切に」しているとはどうにも感じられないのである。

(絶対そんなつもりで生きてないだろと思いつつ、惰性や義務感で生きているうちにそれを脱する何かしらの「目的」が見つかる可能性があるので、必ずしも全否定されるものでもない)


上述のとおり推奨するわけではないが、自殺はある意味最も幸せな死に方かもしれないと思うことはある。時間や場所、死因まで選び放題で、自分が完全に納得してから死ぬことができる。こんな死に方は他にはないのではないか。
……というのもあり、自分は幸福追求の観点から安楽死・尊厳死制度に賛成寄りの考えを持っている。

「安楽死が制度化されると、死を選ばせる方向の同調圧力が発生してしまう」という危惧は分かる。分かるが、同調圧力がかかったって死を選ばなければいいだけじゃん、と思ってしまう。他薦や投票で強制的に執行されるわけじゃあるまいし。

何なら、同調圧力によって安楽死する者がいるとしてもそれはもう自分の意思、「安楽死したかった」でいいと思う。
同調圧力によって「死にたくなる」者は発生するかもしれないが、同調圧力によって「死にたくない者が死ぬ」事態は想定されないということ。死にたい者が死ぬ、このことに変わりはない。

なお、基本的に安楽死制度がないからといって死ぬ権利が制限・侵害されているわけではない。体が自由に動くのであれば制度がなくたって自殺はいくらでもできる。それをしないのはその人が「したくない」からでしかない。

死ぬ権利が制限・侵害されているといえるのは体が自由に動かない人など。現状、物理的に自殺できない人が死を選ぶには協力者に他殺か自殺幇助などをしてもらう必要があり、現実的な選択肢はないようなもの。そんな人たちには制度があることでそれこそ「死を選ぶ権利」が認められることとなる。

安楽死制度によって「死」を主体的に選べる人が増える、死に方の選択肢も増える、それでよくないか?安楽死したくない人はしなければいいだけ。
自分は幸福追求の観点から賛成寄りなのだが、安楽死・尊厳死制度は社会保障費問題への対策のひとつとして有効だろうし、そのような意味でも制度として検討する価値は間違いなくある。


なお、自分は「死があるからこそ生は尊い」「人生は終わりがあるからこそ尊い」みたいなことを言うつもりはない。それは、繰り返しになるが「命とは何かを為したり享受したりするための最たる基盤……手段寄りのものでありだからこそ大切であると捉えている」から。
たとえ死がなくても、終わりがなくても尊い命、人生は存在すると考えるし、その逆も然り。命や人生を尊いものとしているのはそれらではないと。

関連して、不老不死についてだと、まず不老には概ね肯定的。不死は、死ねない体というのは嫌だが、単に寿命がないという意味での不死や病気・物理攻撃・有害物質などへの耐性的な意味での不死なら歓迎する。
自分は「いずれは死んでみたい」と思っているので、死に得る余地や選択肢は残っていてほしい。

そして、自分が死んだ後のことなんか知らんと思いつつ、何か(遺伝子や子孫とは限らないが)を残したい気持ちはある。
たぶん、「死後に〇〇を残す」というところまでは自分の「生」であり、そこまでは「自分が死んだ後のこと」ではないという判定が自分の中でなされているのだと思う。そういう生き方、死に方ということで。


自分の死生観は以上のとおり。
これからも命を大切に、かといって死を拒絶することなく在りたい。引き続き幸せに生きて、いずれ幸せに死にたい。

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