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「ミシェル・フーコー ――近代を裏から読む(ちくま新書)」を読む

正直に言うが、私はフーコーに関しては全くの素人だ。新書を読んでるんだから当然だと言えば当然だが。
読む前の感覚としては、構造主義とかポストモダンあたりの人かなという印象。詳しくもないし、惹かれているわけでもないし、特に読み始める理由はなかったのだが、本書がKindleのライブラリーにいつの間にか存在していた。おそらく私が買ったのだが、買った時の記憶が全くない。おおかたセールの時に買うだけ買ってダウンロードして放置していたのだろう。とまあ、Kindle Unlimitedに加入すると、すでに買ってある本が読みたくなる法則に従い、本書を読むことにした。

とりあえずいつも通りの読書スタイルとして、「はじめに」を読んでから「あとがき」を読む。参考文献の項も読んだが、ここが結構充実していたので本文への安心感を得た。読書案内を併せており、「この新書1冊でフーコーを理解したと思うんじゃねぇぞ」という感覚がヒシヒシと伝わってくる。こういうのでいいんだよ。

第1章から読んでいくと、まずダミアンが処刑されるところから始まる。ダミアンがえげつない方法で処刑される。ダミアンって誰だよと思いつつも、両手両足を馬に引かれ四つ裂きにされる。結構具体的に描写されるのでグロい。いったいダミアンはどれほどの罪を犯したんだと思うが、罪の詳細はあまり語られない。ともかくダミアンが無惨にも処刑されたのだ。これはもちろん現代の話ではない。18世紀のヨーロッパでのお話だ。

これが本書の中心題材となるフーコー著「監獄の誕生」の冒頭だ。このパターンだと「昔はこうでした」と提示しておいて、「今は平和で良かったね~」あるいは「今は生ぬるいぜ」みたいなの主張をするのかと思ったら、そうではない。

著者によると「監獄の誕生」を読み終わると、処刑がある世界に比べて現在を持ち上げようなんて思えなくなるらしい。フーコーはそういうありきたりな結論を良しとしない。

フーコーは見えないものを見えるようにする(つまりは蒙を啓く)ことよりも、見えているものを違ったしかたで見せることを望んだ。それこそが、彼にとっての哲学という実践なのだ。

重田園江 ミシェル・フーコー ――近代を裏から読む ちくま新書

なるほどなるほど。この考え方は私好み。

さらにつづけて第2章を読んでいくが、まだ監獄の誕生の読解には入らない。監獄の誕生がどういった書物かについて語られる。私の理解だと、どうやらこの本は「悪書」の類のようだ。
問題を提起して、方法を提案して、結論を示すという理科系の作文技術的なストーリーにはなっていない。フーコーが考えながら書いた本で、議論があっちこっち行ってしまい簡単に要約することは出来ない。むしろ、この本を読みながらオメーも一緒に考えろ、というような本だろう。

そして、この本書「ミシェル・フーコー ――近代を裏から読む」も、フーコーの「監獄の誕生」を中心に語るということは、単にストーリーを提示するわかりやすい本ではない。
フーコーから、いわゆる「人生哲学」なるものを抽出するわけでもなく、先の引用の通り、フーコーにとっての哲学の実践を示す。「考えさせられる本」というより「考えながらじゃないと読めない本」だ。

そして、その本書を語るこのnoteもどこか要領を得ないものになるのは仕方がない。私が他の記事で毎度毎度述べているように、この世界は綺麗に割り切れるワケではないのだ。

ぶっちゃけ本書を読んでもフーコーについても、監獄の誕生についてもよくわからなかったが、忘備録として残しておこう。

どうやら監獄の誕生は監獄について書かれてある本ということはわかった。昔のヨーロッパではギロチン処刑でおなじみの身体刑がなされたが、自由刑(懲役刑など、人の自由を奪う刑罰)に移り変わっていった。現代では、多種多様な犯罪が行われるが、大体懲役刑になる(罰金とか死刑もあるけど)。犯罪の多様さに比べて刑罰の没個性っぷりがすごい。昔の身体刑には様々な種類があったことも踏まえ、「なぜ監獄での自由刑に移っていったのか」というのが問いかけだな。そして刑罰は時代と社会を反映することもあわせると、「監獄での自由刑を採用する社会はどのような社会か」という問いになる。

監獄の合理性が語られるが、先に指摘した通り「身体刑は愚かで、自由刑の方が優れている」とはならない。
処刑には処刑なりの理由、当時の社会を反映した合理性があり、
監獄には監獄なりの理由と合理性がある。

先程私はダミアンが処刑された話で結構重要なことを書いた。あっさり書いたので全く気づかなかった人がほとんどだと思うが、ここだ。

「いったいダミアンはどれほどの罪を犯したんだと思うが、」

私は前提としてダミアンが処刑されたことしか書いていないが、当然のように彼が何か罪を犯したと思考している。刑罰のひとつの意味がそれだ。刑罰というだけで犯罪を想像させる。刑罰という記号が犯罪という意味になっている。刑罰 犯罪ということだ。
刑罰を見て、そうならないように犯罪をしない。というのが刑罰の1つの意味かな。一般予防と呼ばれるが、この傾向は身体刑に強い。刑務所がセーフティネットと呼ばれることもあるこのFワードな現代世界より、ド派手に処刑される様子を見たら犯罪を犯す気はなくなる人が犯罪に至らないための刑罰と見ることが出来る。

対し、監獄は受刑者が中心だ。刑を受けるのはもちろん受刑者で、彼らの矯正が目的とされる。
そこで、「規律」という概念が出てくる。規律のイメージとして私はまず学校が思いつく。規律を身につけるというと、なんとなく理想の生徒像的なのが思い浮かぶ。そういう人は明文化されている校則を守ることはもちろん、明文化されていない「空気を読む」。誰かが言ってるわけでもない「こうあるべし」を守る。そういう空気は、一部の生徒ではなく、大部分の生徒も守っていく。明文化されていない規律を構成していく。大きな権力が押し付けているわけではない。むしろ一般人が相互監視により、規律のようなものが生まれていく。

話を監獄に戻すと、規律は異常者・犯罪者は我々とは違う人というイメージを付け、一般人の集団から隔絶させる。そうして規律への反抗を無力化しているのだ。秩序維持のための手法、人間管理の手法としての規律。自由刑は単に道徳的だから採用されたわけではない気がしてきなぁ! なんだか欺瞞を感じるぞ。
ここらへんの話はわかりやすい。だって我々が生きているのは規律の世界だからね。そして、異常者を排斥する規律の世界で、それを実行している悪役がいる、というお話にはならないのがフーコー流。また、理解しやすいから規律の話をもってきたが、本書は別に規律の本ではないというのもわかりにくいところ。

監獄の誕生ならびに本書は世界を斜めから見て、不快に感じるところを素直に不快と呼ぶ。非常に後味が悪い。
私なりにまとめてみたが、この本は「要約」や「思想 わかりやすく」というGoogleの予測検索候補的な読み方ではなく、フーコーの考え方の枠組みを知ることを目的にした方が有益だろう。つまり気になった人は読んで下さい、といういつものアレである。

そしてそれが良い。別に哲学は処方箋である必要はない。現実を違った形で見る哲学の実践も面白い。

サムネイル画像はamazon.co.jpの商品ページから。


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