中島敦の会@NANK

「中島敦の会」は、中島敦とその文学に関心をもつ人々の会です。 横浜高等女学校(現在は横…

中島敦の会@NANK

「中島敦の会」は、中島敦とその文学に関心をもつ人々の会です。 横浜高等女学校(現在は横浜学園高等学校)の卒業生&教職員の有志を中心に結成しました。 現在、会員募集と催事の予定はありませんが、中島敦に関する研究、情報収集&整理、情報発信を随時おこなっていきます。

最近の記事

横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集 中編(J-Q)

「中島敦の会」ポスト(ツイート)まとめ2 横浜高等女学校で8年間、教師をつとめた中島敦。 (1933年4月~1941年3月 ※4月より休職、6月に退職) 彼はどんな教師だったのか? それを知るヒントになるユニークな証言や資料を集めました。 元・同僚や生徒たちの思い出や、横浜学園(元・横浜高女)の資料から、 生き生きとした「教師・中島敦」の姿がつたわってきます。 意外な一面や興味深いエピソードを、キーワードをつかってご紹介します。 ※「中島敦の会」のXのポストのまとめです。

    • 会報14号掲載記事公開「中島敦と芥川龍之介」…『山月記』と『羅生門』を中心に(講演要旨)

      1992年発行の「中島敦の会」会報第14号は、中島敦没後50年特集でした。 教え子の回想や小論文などのコンテンツが掲載されました。 その中から、「敦の会」で行われた講演をまとめた記事を公開します。 中島敦を語る上で、なにかと比較される芥川龍之介について、敦文学の研究者が語りました。 ※30年以上前の講演ですので、現在の中島敦研究とは状況が異なっていることをふまえて、ご覧ください。 中島敦と芥川龍之介(1991年12月1日講演要旨)講演者 佐々木充 千葉大学教授(当時)。

      • 敦のルーツをさぐる 中島家の書の世界・後編

        中島敦の生家・中島家の人々の書を見ながら、「家学の伝統」を考えてみるお話の後編です。 前編と同様に、中島家の資料整理、調査をなさっている中島敏枝さんに解説していただきました。 なお、これらは私見であり専門的な分析ではないことをご了承の上で、ご覧ください。 また、紹介できる書は限りがあり、解説どおりの特性があらわれた書をすべて掲載できてはいませんが、それぞれのテイスト、個性を感じていただければと思います。 ※文中の解説は書籍「評伝・中島敦 家学からの視点」 村山吉廣著・中央

        • 敦のルーツをさぐる 中島家の書の世界・前編

          オープニング 中島敦の生家・中島家は敦いわく「父祖伝来の儒家」(狼疾記)。 祖父・中島撫山をはじめ伯父・父・叔父みな漢学を修め、それぞれが教育、文化に功績を残しました。 彼らは学問はもちろん書や絵画にも優れ、様々な著作や書画等が今に伝わっています。 そしてそれらには中島家の家学=漢学の伝統があらわれています。 そんな中島家の人々が残した書を見ながら、「家学の伝統」を考えてみました。 前編ではまず、中島敦の祖父・中島撫山、伯父・斗南(端蔵)と玉振(竦之助)の書を見ていきます

        横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集 中編(J-Q)

          からっぽの財布と、たくさんの思い出 中島敦の「貧乏キャンプ」

          キャンプメンバーでいちばんオシャレ?だった敦。 食事作りでは戦力外で、薪(まき)を拾う係だった敦。 しかし、食料調達の達人だった敦 etc. 敦と飯塚氏、その友人たちの登山&キャンプ旅行は、まさしく「珍道中」というもので…⁉ introduction 今回、ご紹介するのは中島敦の会会報第一号( 1978 年)に掲載された記事、飯塚充昭氏「中島敦さんとの交遊」から、1933年8月「赤城山~四万温泉キャンプの思い出」です。 この文は、1977年の「敦の会」でのお話を筆記し、飯

          からっぽの財布と、たくさんの思い出 中島敦の「貧乏キャンプ」

          吾母識らずの男(あつし)と母の物語~中島敦の母 覚書~

          昭和13年頃(1938年)のある日、中島敦は手帳に漢詩の草稿を書き留めました。 生来不識吾母(生来識らず 吾を生みし母を) 病中思母愁傷久(病中に母を思い 愁傷久しく)… この漢詩を書いた頃の敦は、横浜高等女学校に勤務して6年目。喘息が悪化しはじめ、欠勤が増えてきていましたが、ユーモアある話しぶりと豊富な知識、授業でのたくみな朗読で、あいかわらず人気のある教師でした。 しかし、この1年間に、親しい同僚(吉村睦勝、岩田一男)があいついで学校を去っていきました。 そして敦は

          吾母識らずの男(あつし)と母の物語~中島敦の母 覚書~

          横浜・2つの中島敦記念碑2

          作家・中島敦が8年間を過ごした地・横浜。 多くの人に親しまれ、慕われた彼と、横浜のゆかりを記念しようと、 2つの記念碑がつくられました。 本項では、2つの記念碑のうちのひとつ、 「中島敦歌碑」について、「中島敦の会」の記録を中心に、 その成り立ちやエピソードを紹介・解説いたします。 その2「中島敦歌碑」 所在地 横浜山手の外国人墓地内 外国人墓地は横浜在住時代の敦の散歩コースのひとつで、勤務地の横浜高等女学校にも近い。 のちに紹介する『かめれおん日記』中で、墓地の門番と

          横浜・2つの中島敦記念碑2

          横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集 前編(A-I)

          「中島敦の会」ツイートまとめ 横浜高等女学校で8年間、教師をつとめた中島敦。 (1933年4月~1941年3月 ※4月より休職、6月に退職) 彼はどんな教師だったのか? それを知るヒントになるユニークな証言や資料を集めました。 元・同僚や生徒たちの思い出や、横浜学園(元・横浜高女)の資料から、 生き生きとした「教師・中島敦」の姿がつたわってきます。 意外な一面や興味深いエピソードを、キーワードをつかってご紹介します。 ※「中島敦の会」のツイートのまとめです。 ※キーワード

          横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集 前編(A-I)

          中島敦と久喜<中島家遺族より>

          中島敦が書いた手紙について、ご遺族が心配していたこと。 久喜についてのひとことが、あらぬ誤解をうけているのではないか、と。 たいせつな地であるからこそ、あらためて、言いたいこととは… はじめに 「久喜市郷土資料館特別展「敦 中島家の系譜」が2022年10月8日~12月4日に開催されました。 中島撫山が居を定めた明治以来、中島家と縁の深い土地・久喜ならではの充実した展示内容でした。 その展示資料のひとつに関して、中島家の方から一文をいただきました。 その資料…中島敦

          中島敦と久喜<中島家遺族より>

          中島敦の「お髭の伯父」竦と『光と風と夢』

          中島敦と伯父・竦の知られざるエピソード。 中島竦の最晩年の冬、敦はなにを見、なにを感じたのかー。 間近で見ていた関係者の証言と、敦の「ノート」からわかることとは…。 敦の伯父・中島竦 最後の正月中島敦の伯父・中島竦(1861~1940)は中国古代文字の研究で名高く、後年、白川静(古代漢学者。文化勲章受章者)等よりその業績を高く評価されている学者である。 中島敦の小説『斗南先生』で「お髭の伯父」、森鴎外の小説『羽鳥千尋』では「中島蠔山」として登場している。 優れた業績を残した

          中島敦の「お髭の伯父」竦と『光と風と夢』

          横浜・2つの中島敦記念碑1

          日本近代文学史にその名を刻む中島敦。 33年という短い生涯のうち、 24~32歳の約8年間を過ごした地・横浜は、 彼にとって思い出深い土地だったでしょう。 「敦先生を記念する記念碑を横浜に建てよう」という思いから、 中島敦と縁ある人々の手によって2つの記念碑がつくられました。 2つの記念碑、「中島敦文学碑」と「中島敦歌碑」について、「中島敦の会」の記録を中心に、その成り立ちやエピソードを紹介・解説いたします。 その1「中島敦文学碑」 所在 横浜市中区元町汐汲坂 横浜学園附

          横浜・2つの中島敦記念碑1