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摂食障がいの克服220【純度とcontext】

 仕事から帰りました。

 一応、昨夜の『お手て』ですが、幼少期の息子に、『おじいちゃんとおばちゃんは出かけた』(息子の祖父と叔母、つまり私の父と妹)と言ったら、『ねえ・・・お手て繋いで』と言ったことおよび、私は手が繋げない事情を先日書いたところだったので、羨ましく思って・・・。また、その『お手て』ということばを文太が使ったのが嬉しかった。

 矢沢あいさんの『天使なんかじゃない』では、この後、ヒロインの翠と晃が何と1教室でダンスを踊っていました。

 今日は5時間強事前準備及び、英検1級の勉強をしていました。

 英検1級のリスニングパート1~パート3を少しずつ解いてみたら全部あっていて、また昨日の単語も100個中80ぐらいは覚えていた。
 長文を調子に乗って解いたら、間違えました。大体意味は分かるのですが、トリッキーな質問の仕方です。
 英作文の問題を一つしてみようと思って。ここで思うのが、英検の各級の1番キーになるのは、論述ではないでしょうか。非常に難しい。リスニングは準1級と1級はそれほど差異がないように思うのです(準1級も非常に難しい)。

 年も年ですけれど、年も年だからか、英検1級であっていれば、自分で拍手して喜んでいます。一方間違えたら、がくーん・・もうだめ、やっぱりだめ、絶対無謀って落ち込みます。

 英検の勉強を自分でするぐらいならいいけれど、外で働いていて、一言誰かに言われたら、努力して作った資料が仮にゴミ箱にあったら。
 
 例えば無茶ぶりをされて、それにこちらなりに必死に応えようとして、それでいて、物理的に時間が足りなくて完璧になれなくて。それで、片頬上げて皮肉を言われたら。(例えば)

 一つ一つの出来事の純度から言うと、下手をしたら命に関わると思うのです。やっぱり。死ぬべきと思っていたけど、そうなんだね、っていう、妙な自己否定の確信というか。

 今うまい例えが思い浮かばないので、拒食真っただ中の時の、身近な人に言われたことば。

 『300キロカロリーのパンが初めて食べられた』

 拒食症は、とにかく食べること、カロリー、またカロリーがなくてもゆでたまごやこんにゃく的に質感があると無理です。とにかく断食をよしとする。禁止食品が多々ある中、カロリー不明のパンなどは敵そのもの。で、300キロカロリー食べられた、とある日。

 『そんなん言って、また太ったとか言わんといてや』

 当時43キロかな。あれはきつかったな。顔が自分でなくなるまで泣いた。

 私は当人なので、この傷つく心がわかるんです。
 周りからみたらどうでしょう。

 300キロカロリーのパン食べた、43キロの子が、喜んでる背景も、理由も、褒める理由もその瞬間にはわからないというか。

 いつも思うんです。『There is a context』って。
 人が何かを感じるとき、これまでの経緯があるんだって。

 経緯があって、今の自分がいる。

 そうすると、同じ外的要因だって、過度に傷つくし、脅威になりえると。
 そう思うんです。

 山本文緒さんがかつて言っていた。

 何に対しても純度がすごいのだ、そういう趣旨の言葉を。

 私は、それです。
 いい時も勿論いいのでしょうけれど、主に悪い時に振れ幅がすごい。

 たった一つのことの純度というか、影響が大きすぎて、それこそ生命を左右する。それぐらいに、傷ついて生きてきたということ。

 それぐらいに傷ついてきたので、もう傷つく余地がないということ。

 だから、傷つく場所ぐらいあっていいと思っているのです。

 それが、ノートだったり友達だったりするって。

 だから、『that is what your friends are for』(そのための友達でしょ。そのためのノートでしょ)と信じています。

 自分が傷ついたんだから、傷つけた相手はとことん憎むべき存在だと。

 勿論、本気で犯罪に片足踏み込んでいたらそうだと思います。

 けれども、もしかして、相手も、悪意なんてなくて、その人自身の『context』もあったかもしれないなーって。許す許さないじゃなくて。だって、現に傷ついたので。でも、それで、自分が死ぬってぐらいは、傷つかなくていいと思う。

 私だって、そもそも自分が最悪で、周りに最悪の烙印押されて、でも生きてるけど、周りがなんで最悪の烙印押したん、ってちょっと思ってます。こちらが死ぬ。そういう覚悟まで追い詰める、そういう気持ちで自身の態度選んでるの?そういう感じでめちゃくちゃ

 不当に恨み順当に恨み。

 いじめやら、なんやら。それで自分がそういう風に育って。結果もっともっと生きづらくなって。それでも何とか生きようとして。もっともっと辛くなって。

 でも、THERE IS A CONTEXT
 そういいたい。

  最近、フォローさせて頂いている方々のご記事を読むにつけ、生きる=正でもないのは、理解してきて。

 私はそれでも生きていくとは思いますが。

 それでも、何とか生きているとしたら、それだけで尊いと私は思うし、もしも傷つけられる心がなければいいと思う。

 けれど、傷ついている心も純度がまた、120%だから、そんなに、他者から傷つかないで、そう思うんです。

 

 
 

 

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