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ツノがあるものだけがカブトムシ?

はじめに

みなさんは、それぞれの出来事から共通点を見出すタイプでしょうか?それとも、ある仮説を立てて、それぞれの出来事がそれに当てはまるかを確かめるタイプでしょうか?前者では共通点を見出した後に仮説を立てることになるでしょうし、後者でも仮説を修正することになると思います。これらのことを前者を帰納、後者を演繹と呼びます。今回は帰納と演繹について書いていきます。


帰納と演繹のまやかし

帰納法も演繹法も近代ヨーロッパで生まれた考え方です。帰納法はフランシスコ・ベーコンが、演繹法はルネ・デカルトが提唱しました。これらの方法が提唱されたことにより、近代科学は発達していきました。帰納はそれぞれの出来事から共通点を見出し、次に起こることを予測します。それに対して、演繹は仮説(命題)に対して、それぞれの出来事を当てはめていきます。この考え方は中世ヨーロッパで生まれた概念でどちらの方法が優れているというものではなく、単なる思考法や分析方法です。
帰納と演繹という言葉を聞くと、難しそうに思うかもしれませんが、日常的にしていることです。例えば、森へ行き、カブトムシを何匹か見つけたとします。どのカブトムシも茶色くて、硬い翅があり、ツノが生えていると、カブトムシは茶色くて、硬い翅とツノのある生き物という共通点が見つかります。これが帰納です。演繹はカブトムシが茶色くて、硬い翅とツノのある生き物という命題に対して、その森にいるカブトムシを見ていくことです。しかし、カブトムシのメスにはツノがないので、カブトムシにツノがあるという部分を修正することになります。
演繹では、こういった修正に対応できるかどうかで結論が大きく変わります。もし、仮にツノのないカブトムシはカブトムシでないという結論にしてしまえば、メスはカブトムシでなくなってしまい、現実と乖離してしまいます。演繹には修正力が求められ、帰納では観察力が求められます。帰納での観察が仮説を導く重要な過程になるので、観察をおざなりにしたり、色眼鏡で見ていたりすると正しい共通点を見つけ出すことはできません。帰納と演繹は対立概念ですが、1つの結論にたどり着くまでに帰納と演繹を何度も繰り返していきます。そこで誤った解釈を入れてしまうと結論は明後日の方向に向かいます。つまり、帰納と演繹は立派な分析方法であるにも関わらず、それを行う人にそれなりの力量がなければ、意味不明な結論になってしまいますし、帰納である程度具体的な共通点を見出さなければ、その後の演繹でもぼんやりとした結果しか得られません。

確率も考慮

学校や会社へ行く道中、偶然、同じ時間の電車に乗った人が特定の席に座っている人とします。3日連続で同じ席に座っていたからといって、明日も同じ席に座るとは限りませんが、勝手に明日も同じ席に座ると思い込んでしまいます。その人が次の日も同じ席に座る保証はどこにもありません。確率的にいったとしても、たった数回レベルではその仮説が正しいことを証明することは非常に難しいです。サンプル数の少ないデータで結論を導き出すことは非常に危険です。なので、統計学では莫大なサンプルを分析して、その正当性を担保します。
帰納法にも確率論が存在し、次も同様のことがほぼ確実に起こりうるというところまで、データを集めなければなりません。前節のカブトムシの例もそうですが、カブトムシを数匹見て、その数匹すべてがオスであれば、カブトムシにはツノがあると結論に至ってしまいます。次現れるカブトムシがメスであれば、導き出した結論を修正しなければなりません。さすがにこの世に存在するカブトムシを調べ上げることは難しいですが、最低でも100匹ほど調べて、結論を導いたほうが確度が高くなります。中には突然変異した個体も存在しますが、サンプル数が少ないとそれが突然変異種なのか、通常の個体なのか区別が付きにくくなってしまいます。だから、サンプル数を増やすことで、突然変異種のような外れ値を見つけ出すことができます。帰納は非常に数学的思考方法です。
帰納で導き出した結論はそこでストップするのではなく演繹の仮説となります。演繹の仮説で個々の事象を分析し、その仮説が正しければ、本当の意味でも結論となります。しかし、数字や文字のように人間が定義したものを除き、その仮説が100%正しいということはありません。現時点で一番真実に近いであろうとされる説というのが正しいです。これも帰納と演繹を繰り返している結果です。100年前に正しいとされていたことが今でも正しいと信じられていると言えば、必ずしもそうではありません。そういった説は日々、進化しており、100年前に導き出された結論を仮説として設定し、個々の事象に当てはめ、分析をします。その結果、100年前と違った結論になることはあります。現在、正しいとされている説は未来の仮説であり、それを基にその仮説が正しいかどうかを検証します。その説が正しくない理由に確率論が考慮されていなかったということもあるでしょう。


最後に

以前に取り上げた分析が下手な人について取り上げました。その時の内容と結論はほぼ同じです。分析ができない人は確率論を考慮しなかったり、色眼鏡で見ていたりします。今回の機能と演繹においてもその過程での注意点はそこに尽きます。こういった分析で求められることはフラットな気持ちでも分析することと結論や仮説を修正することができるかどうかです。この2つができないとトンデモ理論になってしまいます。トンデモ理論を提唱する人ほど論理の飛躍があったり、一貫性のない結論に至ったりします。こういった思考方法が役に立たないと思われるかもしれませんが、成功している人はこういったことを無意識のうちにしています。いわゆるPDCAサイクルとよく似ています。PDCAサイクルは帰納と演繹を自らで行っており、観察対象も自分です。一見、役に立たなそうな理論も考え方一つで大きく変わります。自分を見つめなおすきっかけにもなるかもしれません。

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