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Tag der Deutschen Einheit—ドイツ統一30年—


今日で東西ドイツが統一されてから30年が経ちます。東西ドイツは統一されましたが、その影響はいまだに残っています。東西ドイツにまつわる話を描いています。


はじめに

みなさん、ドイツに行かれたことはありますか?それとも、これから行ってみたいと思われていますか?ドイツでソーセージを食べながら、ビールを飲んでみたいと思われていませんか?ドイツのビールは安くて、美味しいのでついつい飲みすぎてしまいます。ドイツはヨーロッパ旅行で人気の旅行先で、その人気が衰えることがなく、上位に君臨しています。実は今日であることからちょうど30年になります。僕の誕生日ではありませんよ(笑)。それは東西ドイツの統一です。東西ドイツは冷戦の象徴とされていましたが、30年前のこの日にドイツ民主共和国(東ドイツ)はドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)に吸収されました。統一という名前ですが、実際は西ドイツに吸収されています。ドイツでは10月3日は祝日で、ドイツ人にとっては歴史的な1日です。そんな30年の節目を迎えたこの日にドイツについて書こうと思います。


冷戦、ドイツ分断、そしてベルリンの壁崩壊

ドイツは日本同様、第二次世界大戦に敗れた敗戦国です。ヒトラーの自殺から1週間後に連合国に降伏しました。第一次世界大戦に引き続き、二度目の敗戦を味わうことになります。ドイツの戦後処理をしている最中に第二次世界大戦で手を組んでいたアメリカとソ連が対立をし、冷戦に突入します。これがドイツの運命を翻弄することになります。ドイツの西側を占領していたアメリカ、フランス、イギリスから独立する形で1949年に西ドイツを建国しました。同年に西側諸国に対抗するように、ソ連は占領していたドイツの東側を社会主義国家の東ドイツを建国しました。ドイツがヨーロッパでの資本主義と社会主義の境界線となりました。冷戦で有名なベルリンの壁があるベルリンは東ドイツ領内ですが、そのベルリンを西側諸国と東側諸国で占領していました。そのため、西ベルリンは東ドイツの中にポツンとある状態でした。ベルリンがすべて、東側諸国に押さえられると西側諸国が不利な状況に立たされるため、ベルリンの西側を西側諸国が押さえていました。

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ベルリンの壁と監視台

ベルリンの壁はドイツが東西に分かれたときに築かれたものではなく、分裂してからしばらくして築かれました。この壁が歴史的意味を持つものになります。ベルリンの壁は東ベルリンから西ベルリンに人が流出するのを防ぐために築かれました。東ベルリンより西ベルリンの方が物資もあり、生活が豊かだったからです。流出を防ぐために東ベルリン(ソ連)がベルリンの壁を築きました。本来、東ベルリンから脱走することは禁止されていましたが、生活苦を逃れるために西ベルリンに人が流れていました。東ベルリンから西ベルリンに脱走しようとして、多くの命が奪われました。ベルリンの壁建設が冷戦の象徴となり冷戦を激化させることになりました。この当時、東ベルリンにいた人たちは西ベルリンに行くことはもう二度とないと思ってしまうほど絶望していたそうです。

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ベルリンの壁はその当時絶対に崩壊することがないと思われていて、もっと言えばその当時、生きていた若い人たちすら生きている間にベルリンの壁が崩壊するところを見られないと思うほどだったそうです。しかし、ベルリンの壁は思いがけないことで崩壊しました。1989年11月9日に東ドイツの政治報道局長のシャボフスキー氏が、誤って11月9日から東ベルリンと西ベルリンの往来が可能になると発表してしまいました。この発表が歴史的な出来事を引き起こします。本当は11月10日から往来の緩和が始まるだけでしたが、そのニュースを聞いたベルリン市民がベルリンの壁に集まり、壊し始めたのです。ベルリンの壁の崩壊をきっかけに東西ドイツの統一や冷戦終結を加速させます。ベルリンの壁が崩壊して数時間後に東西ベルリンの往来が自由になりました。冷戦の象徴であったベルリンの壁は誤報が原因で崩壊し、歴史を大きく塗り替えることになりました。ベルリンの壁が崩壊してから約1年後に東西ドイツは統一されます。


東西ドイツが統一されてから

東西ドイツが統一された90年代のドイツは低迷しましたが、2000年代以降はそれを乗り越えて、世界第4位の経済大国になりました。これだけ見ると、東西ドイツ統一時の問題は過去のように思われるかもしれませんが、まだ、ドイツ国内でも旧東ドイツと旧西ドイツの地域での格差は見られます。5年前に、ドイツに住んでいましたミュンヘンでそのことを感じることはありませんでしたが、ベルリンへ旅行したときに、その格差を感じました。ベルリンはドイツ最大の都市で首都ですが、他の都市に比べると治安が悪い印象を受けました。さらに街の周りを大型クレーンが囲み、開発途上のイメージを持ちました。日本でよくある再開発のような雰囲気ではなかったです。ドイツでそのような光景を見たのは初めてで、いまだに東ドイツ時代の影響が残っているように思われました。5年前とはいえ、統一されてから25年も経っていますが、それでもいまだにそのようなことを感じました。

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冷戦の象徴であったベルリンの壁があったところには印が打たれています。いまだにベルリンの壁の一部が残されており、一部の壁はアーティストがキャンバス代わりに絵を描いています。ベルリンの壁の破片が少し高価なお土産として売られています。中にはベルリンの壁に石をぶつけて、ベルリンの壁の破片を採取している人もいました。それを売ろうとしていたのか、持ち帰ろうとしていたのかはわかりませんが。ベルリンの壁が築かれても、壁を越えて、西ベルリンへ行こうとする人が後を絶たちませんでした。多くの人は西ベルリンにたどり着くことなく、命を落としていきました。壁が二重になっている地域もあり、そこではトンネルを掘られていました。まさに『大脱走』の世界です。多くの人が越えようとして命を落としていったベルリンの壁は今ではベルリンだけでなく、ドイツの一大観光スポットになっています。ベルリンの壁はたくさんの人の思いが込められています。ベルリンに行かれた時にそのことを感じてみてください。

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旧東ドイツは実質的に西ドイツへ吸収され、基本的に西ドイツのものが導入されましたが、旧東ドイツでは歩行者用信号機のマークだけ、東ドイツのままです。信号機のマークが可愛らしく人気があるからです。僕もそのキャラクターのグッズを買いました。そのキャラクターはアンペルマン(アンペル=信号)と呼ばれ、ベルリンではアンペルマンのショップがあるほど人気があり、ベルリン土産としても愛されています。アンペルマンだけは東ドイツ時代から変わらず残っていて、ドイツだけでなく他の国の人からも愛されています。ちなみにですが、江南スタイルの替え歌がアンペルマンの歌として存在しています。ご興味のある方は一度ご視聴してみてください。

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青のアンペルマン

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赤のアンペルマン




最後に

ベルリンの壁が崩壊してからドイツは統一され、冷戦も集結し、世界は新しいステージに突入しました。国際的に見ても、冷戦は過去の出来事かもしれませんが、今でもその爪痕はヨーロッパ各地に残っています。その1つがドイツです。今でも東ドイツ地域と西ドイツ地域との経済格差は残っています。それは冷戦の影響です。国連難民高等弁務官を務められた緒方貞子さんは冷戦中よりも冷戦が終わった後の方が悲惨であったとおっしゃっていました。ドイツもその例外ではなかったと思います。東西ドイツが統一でドイツは10年以上低迷した時期を迎えました。もし、統一しない状態で続いていれば、西ドイツは低迷することはなかったと思います。冷戦の影響は冷戦中よりも冷戦後の方がその影響は大きかったのではないかと思います。それらの影響が完全になくなったときに、本当の意味で冷戦は終わったと言えまるのではないでしょうか。東西ドイツ統一30年という節目に冷戦や東西ドイツについて考えてみませんか?

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