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独裁は、ならず者による、ならず者のためのもの

はじめに

今日は世界で初めて原爆が兵器として使われ、広島に落とされた日です。あれから77年経ち、日本は民主主義国家として再スタートを切りました。そして、ここ数年。よく日本の民主主義は終わり独裁国家への道を歩み出しているであったり、戦争の道を歩み出しているであったりと仰々しいことを吹聴する人がいます。もし仮に日本が独裁国家への道を歩んでいるのであれば、そういった人は間違ないなく消されますが、何年経ってもピンピンと元気に活動をされています。本当に日本の民主主義は終わり、独裁国家に向かっているわけではなく、自分の都合の悪い方向になるとそう言うことを言うだけです。民主主義が暴力に屈したときに、民主主義は終わります。裏を返せば、そういう人がいても自由に活動ができることが、日本が民主主義国家であることの証明になります。今回は民主主義と独裁体制について書いていこうと思います。

民主主義は最悪の政治形態と言える

民主主義は決定の過程に時間がかかり、1つのことを決めるのに時間がかかります。テレビではよく中国のような決定のスピードが必要とも言いますが、独裁体制の最大の利点は決定がスムーズであることですが、それ以外にいいことはありません。自らにとって都合の悪いことに対しては言論弾圧や人権侵害、大量虐殺さえも厭いません。それでも独裁国家に憧れているのであれば、彼らが民主主義を壊している張本人になるでしょう。
民主主義では社会秩序を乱さない範囲で自由が認められています。そうなると様々な人が様々な意見を言い合うことになります。そうすると1つのことを決めるために、調整が必要になり時間がかかってしまいます。独裁国家では反対する人を更迭、投獄、処刑をし、なかったことにします。反対している人たちの意見も聞き、決定を進める必要があります。民主主義はこのように決定に時間がかかるため、そういった意味では決められない政治を表していることになります。
民主主義の最大の特徴は決定に時間がかかる反面、様々な主張をすることができることです。主張が過激化し暴力行為に及ぶようなことまでは認められませんが。秩序を乱すような行為については取締りをしなければ、北斗の拳のような無秩序な世界になってしまいます。危険な反基地運動を繰り返し、暴徒化したデモ隊を取り締まることさえも左翼は言論弾圧だと言いますが、これは正当な治安維持行為であり、市民や社会を守るための実力行使です。民主主義で認められている自由の範囲を逸脱すれば、取り締まられて当然です。それをあたかも独裁国家同然のようなことを言うのはおかしな話です。しかし、そういったことを言うことを民主主義国家では認められています。
「民主主義は最悪の政治形態と言える」に続きがあって、「これまでの政治形態を除けば」という言葉が続きます。これはイギリスの元首相・チャーチルの言葉です民主主義は完璧な政治体制ではないが、これまでの政治体制に比べれば、だいぶマシだということです。民主主義は完璧ではありませんが、これまでの歴史を踏まえて生まれたまだマシな政治体制であることは確かです。

独裁はすべてにおいて未熟

国だけでなく、会社や学校、部活、地域の委員会でもある人がトップになってから急におかしくなったということや組織改革をしてもいつも閉塞感が漂っているということがあるはずです。これを独裁体制がいかに未熟なのかという観点から書いていきたいと思います。独裁とはある人が絶大な権力を握り、その人の独断ですべてを決めることです。基本的に独裁体制の組織では、恐怖政治が行われます。歯向かえば消されることが多いです。独裁体制の組織では人で組織の雰囲気が変わるのであれば、トップが人として未熟であり、何をしようが閉塞感が漂うのは組織が未熟だからです。暴力などの恐怖で人を支配することほど楽なことはありません。
一番簡単に組織をまとめ上げる方法は歯向かうことを許さない恐怖政治の体制です。そうすることで、組織運営が楽になります。彼らにとって多様な意見など不要で運営者が善と思うことを従わせる体制を作ることができれば、よくその下にいる人たちのことなどどうでもいいのです。運営者が厳しいということはありますが、厳しさと恐怖政治は全く別ものです。厳しさには組織をよくするための運営を心掛けがありますが、恐怖政治にはそれはありません。恐怖政治を敷いている運営者が楽をできればそれで十分なのです。
自分の気に食わないような意見を言う者を左遷させたり追放させたりするような人は人として非常に未熟で、権力を持つべき人ではありません。しかし、そういった人が権力を持つことは珍しくありません。自分の正しさを他人に押し付けるような人は非常に未熟で独裁者気質が非常に強いです。そういった人が教師のような人の上に立つような立場になれば、おそらく反対意見を持つ生徒の成績を下げるでしょう。独裁者は人として未熟で、誰かの上に立てるような人ではありません。そういった人は権力を持つまではヘコヘコしますが、権力を持った途端、豹変します。反対意見を聞き入れるということは非常にしんどいことで、それができない人に力を与えるとロクでもない結果が待っています。


未熟な権力者が作った負の遺産

独裁国家は権力者が人として未熟か組織が未熟かということだけでは、説明が難しいです。独裁国家は人として未熟な人が権力者になり、横暴が許されるように制度を変えます。ロシアのプーチン大統領は大統領の任期を2期8年から延長させました。独裁国家は未熟な人が国家運営をし、制度設計をします。人はある程度の制限がないとロクなことをしません。いわゆる性悪説で、自然状態では万人の万人に対する闘争になってしまいます。独裁国家は権力者のロクでもない部分を正当化するために、自らが権力の座に居座り続けられるように制度を変えます。
中国やロシア、北朝鮮はまさしく、こうしたことを現代で実行し、独裁者のための独裁者による国家を確固たるものにしています。しかし、恐怖を敷くことでしか人民を束ねることができない未熟者国家です。独裁国家も組織の独裁者も成り上り方は同じで、権力を持つまではヘコヘコし、権力を持った途端、手のひらを返し、横暴を働くのです。そういった国に歩み寄る必要などありません。
独裁国家がクーデターで倒れたとしても、また同じような独裁国家が誕生するのは、権力者が自分がその座を追われることを恐れているから、それができないように制度を構築する過程で独裁国家になってしまうのです。一度権力を奪うと、権力を奪われることを異常に恐れます。独裁体制からすぐに民主化することなく、民主的な手続きを経て、独裁国家になってしまうのです。クーデターが起こっても民主主義国家になり、開けた国になることはそう簡単ではありません。それだけ民主主義国家になるには体力と権力者の度量がいります。



最後に

民主主義は多数者の専制と政治思想家・トクヴィルは言いました。その当時、民主主義はまだ生まれて間もなく、絶対王政が倒れても、また新しい独裁体制が誕生していたころです。トクヴィルの言葉が今の世界には関係がないかと言えば、そうではなく、民主主義であっても手続き一つで独裁国家になれることを示唆しているように思います。ある人がデマを流し、それを信じ込んだ国民が選挙で今の政権を倒したとします。そして新しい政権が誕生し、その政権下である一定の条件下で個人が個人を弾圧することが認められるようになったとしましょう。このプロセスの中に独裁的な手続きは全くありませんが、独裁国家に変貌しようしていることはわかります。つまり、民主主義だから独裁とは無関係ではなく、ちょっとしたことで独裁国家になり、日々の暮らしが脅かされることになります。民主主義を維持するためには権力者を縛る法的体形を維持するだけでなく、権力者を選ぶ国民もそういったことを頭に入れておく必要があると思います。自分の行動一つで民主主義から独裁政治になってしまうのです。

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