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夏の想い出にみる感情

最近はカーテンに差し込む朝日で目が醒める。

少しの明かりで目が醒める僕は寝室には遮光カーテンを取り付けている。しかし、たびたび隙間から漏れる朝日で覚醒へと誘われている。
もうこんな時間か、と寝ぼけ眼で携帯を取りだし時間を確認するのだがまだ午前5時を少し回ったところだった。

そして今は午後6時30分を少し回ったところだ。書斎には夕日が差し込む。随分と日が長くなった。こないだまで肌寒い春だったのに、いつしか夏の様相へと変わりつつある。


久しぶりにエッセイを書こうと思ったのだが、ただ気の向くままに書くのは気が引けた。理由はなぜだか分からないがテーマを募集したくなった。この試みは今までで初だ。多分きっと誰かに求められている気になりたかったのだろう。そうすることによって自分が価値のある人間になりたかったのかもしれない。


こんなエゴイズムの塊のようなエッセイストなのだが、嬉しいことに夏をテーマにして書いてくださいと言ってくれるフォロワーさんがいた。これは本当に嬉しいことでありがたい。とても嬉しいです。ありがとう。

さて、そういうわけで今回は夏のおもいでで文章を綴る。
車に乗りながら今までの夏を振り返った。ラジオ体操をしたことや海で泳いだこと、水泳の授業で隣の小学校のプールを借りたこと、初めて付き合った彼女と花火をしたこと。色んな記憶が脳内を駆け巡ったのだが、綴りたいことはきっと思い出じゃなく、想い出ということに気がついた。自分がしたことというよりは誰かを想ったこと。何かを感じたこと。この想いとは愛や恋だのというものだけではなく、そこにはなんとも言えない感情というものもある。

高校三年の夏、僕らの学校の野球部が地区予選の決勝まで残った。
甲子園まであと一勝。公立高校ではあったのだが、決勝まで残った。準決勝では昨年の優勝校を倒し、ひょっとしたら本当に甲子園に行けるかもという空気が漂っていた。
決勝の舞台、僕はどこにいたのかというとスタンドの応援席にいた。そしてグラウンドにはタカがいた。

こんなにも熱く語っていたながらも僕は野球部ではない。中学校の時は硬式野球のクラブチームに所属していたが、中二の時に辞めた。辞めた理由は練習が辛くて野球をするのに楽しみを見出せなかったからだ。僕の地元からはそのクラブチームに所属していたヤツがもう一人いた。そいつがタカだ。
タカは幼稚園からの幼馴染で少年野球は別のチームに所属していたが小学校中学校はともに同じ学校に通っていた。
タカは小さい頃から体が大きく、運動神経も高かった。中学で同じチームに所属していたのだが、タカだけ上級生のチームに混ざったりと優遇されていた。僕は同学年のチームでも試合に出れない時があった。その差が悔しかった。いくらどんなに自分の中で言い訳してもその差を解消することができず、僕は同じ野球という舞台から降りることでタカとの勝負を捨てた。
何も人生は野球だけじゃない。だったら別のところで情熱を燃やせばいい。そう思っていたが結局のところ胸を張るだけの努力をしてこなかった。

高校に入って3年間野球をし続けていたタカと、無気力のまま楽なことに身を任せていた僕とではグラウンドと応援席以上に大きな差があった。
でも僕は幼馴染として、友達として懸命にプレーをするタカを必死で応援した。高校球児なら誰もが憧れる甲子園。その夢まで手の届く距離にいるのだ。スタンドから声を出して必死に願った。
しかし、結果はあと一歩というところで負けた。野球部のマネージャーが泣き崩れたのを覚えている。タカはどうだっただろうか。きっと泣いていたと思う。高校野球をしていた5つ上の兄貴は最後の試合が終わった時、手で顔を覆うように泣いていたのを覚えている。多くの同級生が泣く姿を見て僕はそれを思い出した。

僕はその姿を見て心底悔しくなった。高校球児が流す涙を僕は流せないと思った。仮に応援席から野球を見て涙を流したとしても、プレーを見て感動をしたから流す涙に他ならない。それはエンターテイメントの部類だ。
何かに全力で向き合って、心血を注いで想いが崩壊して流す球児の涙とは別物だ。僕にはその涙を流せない立場にいるということが明確にわかって悔しくなった。哀れな気持ちになった。
そこにたどり着いた人だけが流せる涙。僕にはその資格がない。

高校球児が最後の夏と言えるのはそこにある。僕には最後の夏がなかった。終わりを告げることなくフワフワと流れている。僕はその時から応援する側に立つのはもうまっぴらだと思うようになった。何かを賭して応援される側に立ちたい。ステージに立ちたい。そんな風に考えた夏の日がある。

さて現在の僕はどうだろうか。
応援されるような立場にいるのだろうか。他人との勝負にある勝ち負けは興味がないと言えるようになったし、一周回って誰かを応援するというのも悪くないとも思っている。
それでいいし、それで間違ってもいないと思う。
でも自分の力で成し遂げたいと思うし、力を注ぎたいと思っている。だからこうして文章を書いたり、あれやこれやとしている。
それはいつか最期の日が来たとき、大声で泣けるように。嬉し涙か、悔し涙かわからないけれどそれはどっちでもいいと思う。

これが夏の思い出にみる愚鈍なる感情である。


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