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「入院生活」10 in excess

12月21日(続き)

 イヤー・タペストリーの続きです。
 イヤー・タペストリーは正直、一昨日まで苦労した。一年の振り返りをして、描きたい映像は決まったが、それを描く技術がない。なにせ、小・中・高校12年間を通じて、図工美術系の成績は5段階評価の3より上になったことがない。
 せめてお手本になる写真を見て描こうとすると、スマホで過去写真を開くことになり、小さい画面を集中してみるしかないので、神経が高ぶり頭が痛くなる。そういうことにならないように、お絵かきを選んだのに、本末転倒もいいところ。

 エジコさんから「アート作品ではなく、自分自身で今年何があったかわかればいいだけだから」とアドバイスを受けたので、割り切ることにした。
 手本の写真は見ない。実際と、色や形や構図が違ってもいい。自分の美術の腕は最低で、描きたいものが描けるわけじゃない。ならば、腕のとおり、そのまま描くしかないじゃん。

 障がい者アートが最近注目されている。NHKとかマスコミが盛んに取りあげる。

 私はあまり納得していない。普通のアートと障がい者アートを同じ土俵で語るのは違う、と思う。

 マスコミが取り上げるのは、共生社会、健常者と障がい者が共に生きる社会にする、という錦の御旗があるからだけど、ある特定の基準で測る、たとえば、写実的かどうか、で評価したら、どうしても健常者の方に軍配が上がってしまう。完成度が高いのは健常者の方、特定の物差しに合致しやすいのも健常者。
 健常者と同じことができないから障がい者と呼ばれるわけで、ならば、障がい者は健常者にできないことができるか、と問われれば、できる場合もあれば、できない場合もある。できなくても構わない、と私は思う。

 しかし、障がい者のアートが、健常者のアート以上に心を打つことがある。その場合の特徴は、障がい者の表現したいことへのこだわりが飛び抜けている場合だ。
 例えば、赤・黄・青などの丸だけを描く障がい者アーティストを見た覚えがある。本当に単なる丸を描くだけなんだけど、その丸の数と重なりが途方もない量になると、単なる丸とは言えない、迫力とオリジナリティを放つ。

 人を感動させるポイントは技術ではないのかもしれない。技術は大事だし、技術がないと再現可能な作品、量産可能にもならないんだけど、より大事なのは、表現したい、しなくてはならない、という内圧の方じゃないか。表現への内圧のある作品は、障がい者であれ健常者であれ、常識を超え迫力をもって、観るものに迫る。

 in excess。神の恩寵に満たされた、才能ある者の称号。
 in excessとは、過剰であること、行きすぎているという意味。それが、神に才能を与えられたものの特権かつスティグマ(聖痕)だと言うのだ。

 話が脱線しまくったので軌道修正すると、私はアート面では障がい者より技術が低いから、イヤー・タペストリーではせめて表現欲求で補うしかなく、過剰に書きこむしかない。それで勘弁してもらうしかない。
 まだまだ余白が多すぎる。もっともっと書きこまないと。

 午前中お絵かきしていると、お茶を淹れに来た看護師が、「これ、おわら? 上手いねー」と言っていく。次に、昼食を届けにきた看護師が「何かの宿題?」と訊くから、
「子どもの夏休みの宿題みたいだね」
 と返すと、
「もう冬だから、冬休みでしょ」
 と一笑いして出て行った。

 あー皆さま、私のイヤー・タペストリーは、小学生低学年の冬休みの絵日記レベル(それより悪いかも)なので、物や景色を写実的にデッサンするのは諦めているので、あくまでイメージの流れ、抽象画だと思って見てください(笑)

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