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光瀬龍『百億の昼と千億の夜』読解:フェミニズムSFの観点から

Ⓒ1977 秋田書房

① 光瀬龍の周縁性とフェミニズムSF論

光瀬龍は日本SF界の巨匠であり、日本SFに詳しい読者なら知らない人はいない人気作家である。特に、1967年出版の代表作『百億の昼と千億の夜』はSFマガジン2006年オールタイムベストランキングにて国内長編部門1位、同2014年のランキングでは3位に輝いている。
 しかし、残念ながら世界的な知名度を獲得しているとは言い難い。日本人作家であるため当然といえば当然であるが、欧米SF批評界の中で彼は今のところ間違いなく周縁化されたSF作家と言える。

 このSF作家としての階級構造の問題はさまざまな事象にあてはめて考えることができる。例えば研究対象として文学の亜流に追いやられているSFというジャンルそのものにもあてはまるだろうし、少し飛躍するが男性社会の中で周縁に位置づけられる女性も同様と言えよう。
 実際に上記の発想をもとにSF研究を行った研究者としてマーリーン・S・バーが挙げられる。彼女は周縁化された存在として女性とSFを関連づけて考えており、文学界から無視され忘却されたSF作品をフェミニズムの観点から救済するためフェミニスト・ファビュレーションという理論を考案した。内容を簡単にまとめると、優れたフェミニズムSFを「SFとして」ではなく「フェミニスト・ファビュレーション」というポストモダニズムに隣接した新たな文学領域として論ずることにより、対象の作品を文学的階級構造による差別から解放しよう、というものである。

 しかし、SF作品を正当に論ずるため考案されたはずのバーの理論には、根本的に2つの欠陥がある:①彼女の理論はSF分野にとって「フェミニスト・ファビュレーション」という新たな権威を生みだすものであり、むしろジャンルの周縁性が強化されてしまう点。②「女性」はあくまでも周縁性の代表的な表象にすぎないはずなのに、彼女はフェミニズムに固執するあまり「女性」以外の周縁性をおざなりにする傾向がある点。
 つまり、上記2点の欠陥によりフェミニスト・ファビュレーションはSF作品の真の救済になってはいない、というのが私の意見である。

 問題点②の一例を述べたい。バーは著作『Lost in Space』にて日本人作家を取り上げている。その作家とは村上春樹である。確かに彼の作品にはところどころSF的手法が用いられているが、一般的にSFには分類されていないだろう。むしろバーが嫌悪する(あるいは迎合しようとする)「権威ある文学」の一員である。バーはそんな村上を気軽に語るが、その裏で数多の日本SFを無視している。村上はノーベル文学賞候補にもなるほどの作家であり、知名度も相当に高い。フェミニスト・ファビュレーションの目的は周縁化され忘却された作品の救済ではなかったのか。彼女はなぜ村上を日本SF作家の代表として取り上げたのだろうか。彼女は目的を忘れていないか。それとも日本人による作品は作者が日本人というだけで無条件に周縁化されているとでもいうのだろうか。どちらにしろ彼女の選定は賢明ではなかった。彼女がもっと慎重に日本SFを選んでいたら、ジェンダー問題だけに留まらない階級構造の交差性をより強く暴くことができただろう。日本SFの救済という意味でも非常に悔やまれる。

② 比較論:「男たちの知らない女」と『百億の昼と千億の夜』

バーが『Lost in Space』にて唯一2回言及している作品がある。それがジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「男たちの知らない女」である。フェミニズムSFとして評価の高い本作は、飛行機の故障により無人島に不時着した女性ルースとその娘アリシアがエイリアンの船に強引に同乗する形で地球(つまり男性中心社会)から脱出するというあらすじの、うっすらとした(と同時に強烈な)男性嫌悪が根底にある作品である。
 女性は男性社会においてもともとエイリアン(のような異質な存在)として不当に周縁化されている、というフェミニズム的な主張を真っ向から表現する「エイリアンとの脱出」というSF的なアイデアは秀逸であるが、あくまでもここで描かれているのは「脱出する女性像」に留まっており、本作が男性キャラクターによる一人称語りで構成されていることを踏まえると、女性の脱出が「男性により後から意味づけされている」本作は「脱出してもなお男性による客体化を避けられない女性像」を描いているとも言える。言い換えれば、本作の女性たち=ルースとアリシアは父権との闘争をはじめから放棄し、父権による客体化=周縁化を前提とした行動を戦略的に選んでいるのである。
 その証左として、ルースは自分たち女性のことを「オポッサム」に例えている。オポッサムには擬死という習性があり、強い捕食者の前では意図的に死骸として振舞うことで生き残りを図っている。つまり、ルースにとって生き残りの手段は男性の目に止まらないよう「擬態」し、最終的に「脱出」することであり、男性社会そのものに挑み、変革を目指すような積極性は放棄されているのである。

 「脱出する女性」がルースたちである一方、光瀬『百億の昼と千億の夜』で描かれる阿修羅王は「闘争する女性」である。彼女はこの世界を外から支配する存在に疑問を持ち、戦いを挑むことになる。この戦いをフェミニスト・ファビュレーションの枠組みで解釈する際は以下の2点が重要となるだろう:①阿修羅王が「宗教」という側面においてキリスト教など巨大な権威により周縁化されている点。②彼女がシンプルに女性である点。
 上記2点を包括した意見として、磯部剛喜は阿修羅王の戦いについて「男性原理と女性原理の葛藤」「破壊を予言する超越者を男性原理と、そして悪として封じこめられてきた土俗の神を女性原理の同義語であると読み解けば、この作品の核には、男性原理と女性原理の対立と抗争という人類社会の普遍的なテーマがあることが窺える」(221)と述べている。父権的存在から無視され、周縁に追いやられてきた存在を女性原理とするならば、女性もSFも日本人作家もみな女性原理的要素を内包している。本作は女性原理による存在をかけた闘争が描かれているのである。阿修羅王が「男たちの知らない女」で示されるフェミニズム的抵抗よりも積極的に父権の転覆を図ろうとしている点は注目に値するだろう。

 さて、阿修羅王の戦いとルースたちの脱出は対照的なフェミニズム像を体現しているが、両者には共通点も存在する。まず、阿修羅王もルースたち同様オポッサムの要素を持っている。阿修羅王は男性原理であるTOVATSUEの市民に姿を見られることがない。その理由について、彼女は次のように分析する:「(彼らが)見ようとしないからだ。自己催眠、すなわちセルフ・コントロールによる情報処理のあやまちだ」。これは、「男たちの知らない女」において、女の姿を単なる輪郭ととらえその実態を見ていないと男性を批判するルースの主張に近しい。阿修羅王も父権の持ち主に姿を見られておらず、それを利用した擬態を行っているのである。そんな阿修羅王と共に弥勒を訪ねる悉達多は阿修羅王に影がないことを発見し、驚きの声をあげる。阿修羅王は彼に「そこにいるのは私の実態ではない」と説明し、本体は別の場所にいることを示唆する。彼女は男性が自身の姿を捉えられないことを利用して敵地に侵入している。これは、男性の目を欺きながら生きのびる女性像を提示したティプトリーのアイデアと一致する。阿修羅王も女性性のオポッサムトリックを利用しているのである。

 また、彼女の存在もルースたちと同様父権的立場から後付けで意味合いが付与されている。彼女は正当な疑問をもとに梵天王に話を試みるが、そんな彼女は絶対者から「宇宙の悪の本質」と解釈されてしまう。「父権からの脱出」を選ぶルースたちと「父権との闘争」を選ぶ阿修羅王は、単にモチベーションが違うというだけで、置かれた状況にさしたる違いはない。

 そして、父権への抵抗が決して楽観的ではない点も共通している。父権的な絶対者を前に阿修羅王はほとんど無力であり、ラストシーンに至るまで勝利を得ることができない。この阿修羅王の無力感をことさら強調しているのが萩尾望都による漫画版である。萩尾の漫画はほぼ小説に忠実であるが、一部オリジナルの場面が加えられている。その一つが、阿修羅王と帝釈天の対面の場面である。阿修羅王は宇宙の破滅を運命だと受け入れる帝釈天に対して「戦うことができる」と主張するが、「お前は勝つことはできない」と返され答えに窮し涙を流す。「勝つことができる」と断言できない物悲しさを象徴する場面であり、勝利を決して手にすることができない諦念が根底にある点は、父権的権力との闘争を(物語開始時点で)放棄しているルースとさほど変わらない。

③ 「父権」とは誰を指すか?

光瀬龍の作品は東洋的な思想が強いとされているが、同時にサルトルの実存主義など西洋の視点も融合されている。この点は多くの研究者が指摘している。では、東洋を強く意識しながらも、同時に西洋からも様々なものを吸収していた彼にとって、父権と周縁とは何であるか。そのヒントは幼少期の戦争体験にある。
 第二次世界大戦を経て、日本は連合国軍の支配下に置かれた。東京大空襲を体験し、日本の敗北を肌で感じた光瀬にとって、日本の敗戦は衝撃だった。また、戦争に加えて病弱だったこともあり、彼は死と対面する機会が多かった。死を感じて知った深い孤独や悲しみが、彼の作品の東洋的無常観を形成する一つの原因になったことは間違いがないだろう。
 敗戦した日本には米軍が駐留することとなった。しかし、この米軍たちは光瀬たち日本人を人間扱いしなかった。少なくとも光瀬にはそう感じられた。「駐留していた米軍家族の大半が、敗戦国の日本人ハウス・ボーイを人間扱いしなかった。それは、動物に対するのと同じ感覚だった。非人間扱いに、悔しさも経験した」(立川 65)。つまり、日本という祖国にいながら、光瀬の意識には人種的な周縁意識が生まれたのである。彼にとっては戦争の勝者であるアメリカを始めとした西欧諸国が父権的な中心、彼らに非人間扱いされる日本人は周縁化された存在だったに違いない。そして、この状況はバーの主張する「人間と非人間の二項対立」と一致する。光瀬の中に育まれた周縁性は、フェミニスト・ファビュレーション的精神と非常に近いものである。『百億の昼と千億の夜』を始めとした彼の作品では、東洋の価値観と西洋の価値観の融合が見られる。これは、フェミニストSFと父権的文学の融合を目指すフェミニスト・ファビュレーションの手法と同質とも言えるのではないだろうか。

 加えて、光瀬はその東洋的な周縁性を女性性に結びつけて考えている。彼は自らの周縁性の発露として仏教と少女のイメージと結びつけ作品に登場させる。その最も顕著なキャラクターが阿修羅王である。阿修羅王は作中で「美しい少女」と表現されている。彼女は長きに渡り戦い続ける驚異的な存在であるが、決して粗野な性格として描かれず、「あどけない面だち」「ひたむきな心の動き」といった少女としての純粋な感情が強調されている。そんな彼女の少女性こそが彼女を訪ねて戦いの理由を尋ねた悉達多に強い印象を残すことになる。阿修羅王は光瀬の周縁性を象徴するキャラクターと言える。

 阿修羅王を父権的存在に対抗する女性原理と解釈した際に、「父権」として設定されているキャラクターとして弥勒と転輪王を挙げることができるだろう。敵である弥勒は男性原理の破壊的側面を体現しており、阿修羅王に使命を与える味方である転輪王は男性原理の社会規範的側面を体現しているのである。
 まず、転輪王が阿修羅王にとって父親のような存在であることは宮野友梨香により指摘されている。「その転輪王が象徴するものとは何かと言えば、それは親ではないだろうか…そしてこの親とは父親のことである」(25)。宮野は『百億の昼と千億の夜』を父親の支配から脱出しようとする阿修羅王の物語と読める可能性を考慮したうえで、続けて「だとしたら、阿修羅王は転輪王とこそ戦うべきなのだ」(25)と主張する。しかし、転輪王を越えるべき父親と考えた場合、彼の無力さが目につく。彼は単なる観測者であり、宇宙の命運を操作できる弥勒ほどの父権は保持していない。『百億の昼と千億の夜』は大きく二度書き直されている。その最初のバージョンでは転輪王は単なる地衣類であることが明かされ、阿修羅王との会話の直後に死に絶えている。彼は女性原理を支配し、乗り越えられるべき強大な敵としてはあまりに脆弱すぎる。単体では父親の象徴として強度に欠けるのである。
 転輪王の父権性について論ずるためには弥勒との比較が不可欠である。弥勒は宇宙を支配し破滅へと導く強大な存在であり、彼らは対の存在として設定されている。つまり、両者とも父権を象徴してはいるものの、その権力には不均衡が生じているのである。これは「男たちの知らない女」に登場する二人の男性キャラクター=ドンとエステーバンの関係と一致する。彼らは二人とも男性でありながら人種的な理由から権力は不均衡であった。また、転輪王は「男たちの知らない女」におけるエイリアンの役割も担っている。ルースたちはエイリアンに同行することによって男性社会からの脱出を試みる。阿修羅王も第8章において転輪王との邂逅により宇宙の外側の存在を知る。エイリアンも転輪王も女性を男性社会から脱出させる力を秘めている。つまり、「男たちの知らない女」との共通点を考慮することで、転輪王は単純な「越えられるべき父権」ではなく「男性社会からの脱出に関わるエイリアン」としての役割も兼ねていると指摘できるのである。

 『百億の昼と千億の夜』における「父権」は一概に女性原理を抑圧する敵と断定できない二面性を秘めている。その二面性が弥勒と転輪王という二人のキャラクターとして体現され、後者は男性原理の中で周縁化された存在であり、阿修羅王と言わば共犯関係を結ぶ。
 これは「男たちの知らない女」におけるドンとエステーバンの関係も同様で、エステーバンはドンと比較すると男性としては周縁化された存在であり、女性のアリシアと関係を持つ。男性社会から脱出したアリシアはエステーバンとの子供を妊娠しており、同じ周縁化された存在としてではあるが、男性原理と女性原理の融和のモチーフと解釈することもできるだろう。「脱出」「闘争」というフェミニズム的なイメージが根底にある両作品であるが、「父権」との友和の可能性は捨てきっていないのかもしれない。

④ まとめ

SF作品と「父権的な」文学の境界を取り払おうとするフェミニスト・ファビュレーションにおいて、日本人SF作家光瀬龍の描いた『百億の昼と千億の夜』は「男たちの知らない女」と並べて語れるほど重要な作品なのではないだろうか。両作には「脱出」「闘争」という女性像の違いが見られるが、オポッサムトリックを駆使し男性社会としたたかに対峙する手法は共通している。
 敗戦を機に周縁化された東洋のイメージを女性性と結びつけて考えた光瀬により描かれた阿修羅王は、女性原理を体現するフェミニズム的な要素を内包すると同時に、単なるジェンダー表象に留まらないより普遍的な闘争を体現する存在と言える。


【注】本作では登場人物の表記が第五章より変化し(例:阿修羅王▶あしゅらおう)、厳密に同一人物とは言えない可能性もあるが、本論においては第四章までの表記で統一した。


【参考】
(1) 磯部剛喜「神々の代理戦争:『百億の昼と千億の夜』から生まれる再生」『SFマガジン2012年3月号・第53巻第3号』所収(pp.217-33)、2012、早川書房
(2) 立川ゆかり『夢をのみ:日本SFの金字塔・光瀬龍』、2017、ツーワンライフ出版
(3) 宮野友梨香「阿修羅王は、なぜ少女か:光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の構造」『SFマガジン2008年5月号・第49巻第5号』所収(pp.9-39)、2008、早川書房

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