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『もののけ姫』はなぜ読み解きづらいのか:汎神論とフェミニズム

Ⓒ1997 スタジオジブリ

監督:宮崎駿
脚本:宮崎駿
公開:1997年

① 序論

『もののけ姫』はジブリ映画の中でもとりわけ「難しい」「読み解きづらい」とされることが多いらしい。例えば、とあるブログ⁽¹⁾で本作は「ジブリ・アニメの中でも、もっとも複雑で、難しいと感じられる作品だろう」と評されている。
 本論では、難解な『もののけ姫』を読み解くために二段階のアプローチを試みようと思う。
【1】なぜ『もののけ姫』が読み解きづらいのかを考察:「昔話の形態」について
【2】『もののけ姫』の読み解き方を再考:「汎神論」と「フェミニズム」について

 次章では、まず【1】について、ロシアの文学者ウラジミール・プロップ『昔話の形態学』を参考にしながら、『もののけ姫』が難解な理由を「昔話の形態を中盤から意図的に外しているから」と説明を試みたい。

② 「昔話の形態」について:抽象的な試練、三つの領域、解消されない呪い

プロップの『昔話の形態学』はロシアの昔話を中心とした研究で、世界中のさまざまな昔話が同様の形態を持つことを指摘している。ここでいう昔話とは「神話的な構造を持つ物語」のことなので、「桃太郎」とか「白雪姫」だけを指しているわけではない。
 まず肝心なのは、プロップの説を引き合いに出すにあたり『もののけ姫』が神話的かどうかを確認することだと思うが、あんなに沢山「神」が出てくる「神殺し」をめぐる話なのだから文句ないはずである。

 昔話は導入からラストまでいくつもの要素にわけられる。そして、導入については『もののけ姫』は「昔話の形態」にかなり忠実と言える。主人公のアシタカは典型的な「被害者型主人公」で、タタリ神という「敵対者」による「加害」で腕に呪いをうけ、それにより故郷を旅立たなければならなくなる。そして、旅の途中でジコ坊という「贈与者(援助者)」が出現し、シシ神の森の情報という「呪具が贈与」される。情報は呪具とは言えないのではとの指摘もあるかと思うが、プロップの想定する「呪具」は幅が広く、その中には情報も含まれているので問題ないだろう。

 この時点ですでに『もののけ姫』を読み解きづらくする要因が一つある。それは、アシタカに課せられた試練が非常に抽象的なことである。アシタカの旅のモチベーションは「呪いを解くこと」であり、「昔話の形態」通り彼には呪いを解くための試練が与えられる。これがグリム童話のような類型的な昔話であれば、例えば「三つのアイテム(シシ神の角、モロの毛、乙事主の牙)を手に入れ、その粉を煎じて飲む」とか「ヤマイヌにとらわれた姫を救い、姫のキスをアザに受ける」のような具体的な報酬があるはずである。しかし、アシタカが宣告された試練の内容は「曇りなき眼で世を見定めること」ととても抽象的だ。
 つまり、加害→旅立ち→贈与者の出現&呪具の贈与といった導入の流れこそ「昔話の形態」そのものだが、目的に対し主人公の取るべき手段が抽象的なのである。そのため物語が何を目印に進んでいて現在地点はどこなのかつかみづらくなってしまう。この「抽象的な試練」が『もののけ姫』読み解きづらさの理由の一つであると考える。

 さて、旅に出たアシタカは昔話の類型に沿って「二つの国(領域)を空間移動」して「闘いの場に臨む」ことになるのだが、この中盤以降「物語の形態」から意図的に逸脱した要素が多くなってくる。
 まずは「二つの国」という部分だが、アシタカの空間移動は①故郷▶シシ神の森、②シシ神の森▶タタラ場、③タタラ場▶シシ神の森という「三つの領域の空間移動」になっている。そして前述の通り、シシ神の森とタタラ場でやるべき具体的な試練内容も提示されていない。例えば、「シシ神の森」「タタラ場」どちらかに呪いを解く手段や得るべき報酬が設定されていればまだわかりやすいのだが、アシタカの試練は「曇りなき眼で世を見定めること」なので、お前の気持ち次第で場所関係ないじゃないか、というわけである。

 続いてアシタカの呪いが最後まで解消されない点について述べる。昔話の形態において、加害により呪いを受けた主人公は試練を乗り越えることで呪いを解くことになる。しかし、『もののけ姫』において物語の発端であるアザはシシ神が消えてもアシタカに残ったまま終わる(正確には、呪いそのものは希釈されているが呪いの「印」だけは残り続ける)。
 その理由は以下の三つが考えられる:①アシタカにとってのアザ=森にとってのタタラ場だから、②アシタカのモチベーションが「呪いを解く」から「サンを解き放つ」に変わったから、③「闘い」ではなく「共存」に物語がシフトしたから。
 ①は次章のテーマに繋がる話なのでここでは割愛する。②と③は共に主人公の立場の曖昧性を示す解釈である。試練の抽象性もあいまってアシタカのモチベーションは流動している。サンの登場以降、呪いの解消はサン解放の副産物的な扱いしかされなくなっている。
 サンもサンで、人の素顔を不気味な仮面で覆っていたのに、物語が進むにつれ仮面が欠け、ついには素顔でしかなくなってしまう。昔話の類型における「敵対者」の役割であってもおかしくない登場シーンのわりに立場が不安定である。戦士のはずなのにモロやアシタカを回復させるヒーラーの役目しか全うできていない(そして乙事主には回復役すら拒絶されている)点も彼女の不安定な対場を裏づけている。

 最後に、物語の結末が「帰還」と「結婚」で終わらない点を指摘する。これは多くの人が論じていると思うので詳細は省くが、『もののけ姫』がもし類型的な昔話として設定されていたなら「シシ神を倒しサンという結婚相手を得てモロの追跡を脱し故郷に戻る」という展開が自然だろう。しかし『もののけ姫』のクライマックスは「勝利」「不幸の解消」「帰還」「結婚」とは程遠いデイダラボッチの暴走と消滅、消えないアザ、忘れられた故郷、サンとの別離というものである。導入こそ昔話の形態に忠実であったものの、タタラ場の出現あたりからプロップの理論だけでは読み解けない物語に変容しており、『もののけ姫』は読み解きづらい物語として鑑賞者の前に立ちはだかることになる。

 ちなみに、『昔話の形態学』では主人公を他の登場人物たちと区別する方法として「標づけ」が指摘されている。標とは主人公を主人公たらしめる傷や目印のことで、例えば『NARUTO』におけるナルトはその主人公性の担保として頬に九尾のアザがある。アシタカのアザも標だと考えることもできるが、あれは単に敵対者の攻撃の効果をわかりやすく示した印であり、本来の標はタタラ場で撃たれた際の銃撃痕なのではないだろうか。苦しい説ではあるが、「サンとシシ神様のおかげで」アシタカは銃撃痕=主人公の標を剥奪されたと見なすこともできそうである。そのため物語は着地点を喪失し、鑑賞者はともすればアシタカに代わる新たな主人公を探す努力すら強いられてしまうのかもしれない。

 次の章からは【2】について、昔話の形態から外れてしまった『もののけ姫』をどのように読み解けばよいのか、シシ神とサンに注目し、「汎神論」と「フェミニズム」の観点から再考したい。

③ 「汎神論」について:アニミズム的解釈への反論

『もののけ姫』は「アニミズム」「自然と人間の二項対立」という観点から論じられることが多いと思う。しかし、これらの観点で『もののけ姫』を論じると、物語を過剰に単純化してしまうリスクがある。

 まずはアニミズムについて反論したい。「この映画の世界観の中心にはアニミズムがあります」と断定するブログ⁽²⁾もあるが、私はあまり賛成できない。同ブログにおいて「作中では森の精霊やシシガミがまさにアニミズム的です」と述べられているが、むしろシシ神(夜の姿であるデイダラボッチ含む)こそが本作のアニミズム的解釈を拒絶する存在であるように感じられる。
 アニミズムの特徴は、動物や岩や木など個々の対象を神ととらえることだと思う。確かに『もののけ姫』は一見モロや乙事主といった個々の存在を神とするアニミズム的な世界観に思える。しかし、実態はシシ神を中心とした地域生態システムそのものを神として想定しているのではないだろうか。ラストシーンでのアシタカの台詞「シシ神は死なないよ、命そのものだから」は、シシ神を個別の主体としてとらえていたら出てこないものだろう。アシタカはシシ神をも包括する生と死のシステムを見抜いているように感じられる。
 生態システムそのものを神として認知する考え方は、アニミズムというよりも汎神論に近い。『もののけ姫』の世界観の中心にはアニミズムではなく汎神論があるというのが私の意見である。

 シシ神は、地域生態システムの中で「命を与えもするし奪いもする」バランサーのような機能として描かれている。最後はそのバランスが崩れ、シシ神が自滅した印象すら与えるが、デイダラボッチは森を破壊する際に人の手の形をした触手を出しており、森の破壊は人の手によるものだという描写が徹底されている点は興味深い。

 続いて「自然と人間の二項対立」について考えたい。本作は単純な「自然と人間の二項対立」に定式化できない。その要因もまたシシ神にあると思う。作品内の描写だけを考慮すれば、シシ神こそがもっとも自然を破壊しており、また人間よりも人間を救っている。つまり、自然側の頂点であるはずのシシ神の行動により「自然と人間の二項対立」は脱構築されているし、シシ神討伐がいよいよ具体化するクライマックスが非常に読み解きづらい。

 ここで注目すべきは、アシタカのアザの拡張がタタラ場の勢力拡大とリンクしている点だろう。前述の通り、物語が終わるまでアシタカのアザは消えなかったが、呪いの効果は漂白されていた。これは、破壊から共存へと考え方をシフトしたエボシ(および彼女を頂点としたタタラ場勢力)の「毒素」が抜けた証左だと考えられる。個人レベルの呪いと地域生態レベルの呪いが同じ重要度で語られることにより、地域生態そのものを主人公としてとらえることが可能となる(気がする)。エコロジー批評の一つに地域生態を重視するバイオリージョナリズムという考えがあるが、『もののけ姫』は失墜した主人公の機能をバイオリージョナリズム的発想が補うという物語構造になっているのではないだろうか。

④ 「フェミニズム批評」について:「女性」「自然」「植民地」の交差点

では、「自然と人間の二項対立」が脱構築され、個々の主体すらバイオリージョナリズムに飲みこまれてしまった『もののけ姫』という混沌の物語をどのように再構築すべきだろうか。その道筋としてサンというキャラクターに注目し、フェミニズム批評の中に本作を位置づけてみたい。

 まずはエコフェミニズムについて考える。エコフェミニズムとは「支配/被支配」という構造で「男性/女性」「文明/自然」の二つを重ね合わせる思想のことである。『もののけ姫』において、「自然」に属する「女性」サンは侵略的な男性原理を批判するエコフェミニズム批評と親和性が高いように思われる。

 また、同じ「支配/被支配」構造を持つという意味で、フェミニズムはポストコロニアル批評(反植民地主義の側面が強い)とも共通点がある。実際に欧米列強が侵略先を女性に例え、「女を征服すること」を「国を征服すること」の比喩として使っていた事実もある。
 『もののけ姫』のフェミニズムを考える際にも、本作のポストコロニアル的側面は注目に値すると思う。というのもタタラ場の「侵略」に対するシシ神の森の「抵抗」描写は原住民のゲリラ的蜂起を連想させるからだ。顔に泥を塗り夜襲をかける「黒い」イノシシたちのイメージは、帝国の侵略に抵抗する原住民に似せられているように思える。そして、人間を食べて人間になろうとする猩々たちは帝国による支配と原住民からの圧力の狭間で立ち行かなくなったクレオールのような悲壮感がある(気がする)。そして、その抵抗の集大成としてサンというキャラクターが設定されていると考えることもできそうである。

 つまり、サンは「女性」「自然」「植民地」という三つの被支配要素を表象するポストコロニアル=エコフェミニズム的なキャラクターと見なせる可能性がある。

 しかし、サンのフェミニズム表象に影を落とす要素が二つある:①侵略者側のタタラ場勢力がエボシという女性および女性たちにより運営され、ハンセン病患者など弱者にも配慮が見られる事実、②サンのとる「抵抗」の手段が「暴力(男性原理の模倣)」である事実。
 上記二点についての解答は以下の通りとなる:①タタラ場の運営が一方的な「伐採」と「搾取」という男性原理的発想で成り立っているのは間違いない、②「暴力」ではなく「共存」を提案するのはサンではなくアシタカであり、彼こそが作品の女性原理を表象しているとすら言える。
 ここで見えてくるフェミニズムの構造は非常に倒錯的である。『もののけ姫』の女性原理を真に表象する人物はサンではなくアシタカであり、サンはアシタカの女性原理的発想に巻きこまれて男性原理的な暴力性を排すことで、初めてポストコロニアル=エコフェミニズム的なキャラクターとして機能すると言えるのではないだろうか。

 つまり、タタラ場とシシ神の森の関係を「支配/被支配」と単純化し、戦場をコンタクトゾーンととらえるならば、「『支配者側から出現した女性原理的言説により被支配者側の抵抗方法が変容する』という歪な構造により、サンとアシタカがセットで作品のフェミニズム的側面を表象している」というのが『もののけ姫』におけるフェミニズム批評の正確な表現だと思われる。

⑤ まとめ:『もののけ姫』はなぜ読み解きづらいのか

・昔話の形態からの逸脱:「抽象的な試練」「三つの領域」「解消されない呪い」
・流動的な主人公のモチベーション

【注目ポイント】
・アニミズムに見えるが実は汎神論的な世界観
・三つの被支配者性:「女性」「自然」「植民地」
・アシタカにより補完されるサンのフェミニズム表象

【参考】
(1)   hiibou「もののけ姫:怒りに曇る目と生きる自然」『ボエム・ギャラント』2019.6.21 (2023.4.4最終アクセス). https://bohemegalante.com/2019/06/21/princesse-mononoke/
(2)   w3「もののけ姫から学ぶアニミズム」2021.8.14 (2023.4.4最終アクセス). https://note.com/mk_0520/n/n5c6f6d682066

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