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書道ミュージアムに行ってみよう!  全国48カ所 (後編)書道界の常識、厳しい上下関係、金権体質に物申す!

展覧会の最高位にランクされる日展(日本美術展覧会)


文化庁「地域文化創生本部事務局」作成した『生活文化調査研究事業(書道) 報告書』(令和2年度)には「書壇の成立と展覧会活動」という項目で、書道界を以下のように解説している。

第1回内国勧業博覧会では「書画」として絵画と同じ分類であった書は、明治23年の第3回内国勧業博覧会では「版、写真及書類」という分類となり、書と絵画は別に扱われるようになった。これは書の独立というより、むしろ、美術としての地位を確立した絵画から切り離された感が強く、書家に書の衰退の危機感を抱かせることとなる。そのため、書の奨励を求める運動が盛んに行われたほか、書の奨励等を目的に書道団体が続々と創設され、書壇しょだん(書家の社会、書道界)を形成した。

第二次世界大戦前の大東亜書道会に1本化されるまでに、書道団体が作られては、合併あるいは消滅が繰り返されたが、戦後には書壇が復活し、公募展を中心とした書道団体の形成へとつながった。

第二次世界大戦後に、書道団体の復興が盛んになってくると、展覧会開催事業がその活動に位置付けられ、時代が下るにつれその比重が増していくこととなった。今日に繋がる主なものとして、明治40年(1907)に第1回文部省美術展覧会が開催されたこと、また、その後継ともいうべき日展において、書の部門が昭和23年(1948)に第5科に設けられたこと、同年に現在の毎日書道展の前身となる「全日本書道展」が開催されたこと等が挙げられる。

これらにより、書道が美術界においてもその地位を確立していくこととなった。昭和59 年(1984)には、第1回産経国際書会と第1回読売書法展が開催され、今日では、単一の門流による社中展等、様々な規模での展覧会活動が行われ、書家の発表の場となっている。

さらに『生活文化調査研究事業(書道) 報告書』の「作品や書家への評価と社会の位置付け」の項には、日展について以下のような記載がある。

現代における書家の評価の1つとして、公募展における書作品の入選や受賞がある。先に挙げた日展や毎日展、読売展、産経展をはじめとする公募展では、公平を期すために多くの審査委員が、応募作品を審査している。このため、書家や書道愛好者が公募展において入選や受賞を多く重ねることは、書芸術に関する知識や技術、芸術性、書作品そのものが広く認められたものといえる。また、公募展で入選と受賞を重ねた書家や書道愛好者が、その公募展において審査委員等を務めていることから、公募展で入選・受賞した書作品に対する評価の積み重ねが、書作品を厳正に審査する能力への評価にも繋がっていることが考えられる。

とりわけ「日展」第5科の入選は難しいとされ、近年は応募作品のうち12%程度が入選しているが、狭き門である。令和2度の「日展」第5科の審査委員を見ると、外部審査委員として書道関係の博物館等から専門家を2名、日展理事3名、日展監事1名、日展会員 10名、日展準会員3名の合計19名が審査委員を務めており、外部審査委員を除くいずれの審査委員も日展において優秀な成績を修めた書家が名を連ねている。

以上のように、書家の知識や技術、芸術性、書作品、審美眼に対する評価は、公募展での入選・受賞、そして公募展審査委員を務めているかどうかに強く反映されている。また、優れた功績を持つ書家が、日展をはじめとした公募展において審査委員を務めることによって、公募展の発展や後進の育成、書道界の振興に資する活動を支えているといえる。

日展の書は入選が難しく、12%程度の狭き門

ただ、展覧会の審査や入選、評価に対して、疑問の声が上がっていることも事実だ。

「特定の書道団体に属していなければ、日展に入選できない」
「審査員が公平、公正な審査をしていない」
「入選するためには、お金が必要である」

こうした声は洋画でも上がっていたが、特に日展第5科「書」で、審査が不透明であると囁かれてきた。それを指摘したのが、東京学芸大学書道科を出て、師匠に就かずに書家になった大渓洗耳おおたに せんじである。1985年に『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社)を出版した大渓は、以下のように述べている。

出品者の実力を認める展覧会が盛んになるのは大賛成である。ここで大きな問題がある。書けない作家が認められ、賞を獲ることである。実力がないのに賞を獲る。へたなのに賞を何回も獲れば、いずれ審査員になる。(中略)展覧会が盛んになって、日本の書道界は盛んになった。そして『へた』な審査員を乱造した。書けない作家がたくさん集まって天下を牛耳る。

7人の書道家の名前を挙げて論評し、「書道界の悪しき体質」という項目で、次のように記している。

書道界というところは師匠というのがいて、師匠のいうことは絶対である。師匠のいう通り勉強して師匠の手本を貰って入選すればお金がいる。(中略)お礼のお金を展覧会の前に作らなければならない。毎年ということになると田舎の実家が山でも持っていれば別だが、そうでなければ積立でもしなければとうてい無理である。(中略)

駆け出しが二十人くらい集まって鳩首相談の結果、『無尽』をすることになった。毎月積み立てて今年は誰と誰、来年はお前の番だなどと、お礼をさきに作るなんて不思議なことをやる。なんとかしなければいままで掛かった金や入選回数が無駄になる。やりくりをつづけて二十年もすると少し名前が売れてくる。もう抜けられない。抜けたら一人では立ちゆかない。ヤクザの世界のようなもんである。

書道界では当たり前となっている師匠と弟子の上下関係の厳しさや、「万事お金」と言われるように、金品がモノを言う金権体質を皮肉っている。

展覧会のたびに右往左往していそがしい。(中略)金を使っているなんて人には言えない。ずっとこれから金がいる。偉くなる人はほんのひと握りである。言いたいことも言えない。さりとて脱会もできない。脱会したら何も残らない。

歯に衣着せない発言は反響を呼び、半年後に出版した『続 戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社)でも、日展に対して、厳しく批判している。

日展が何故インチキか。いやインチキ臭いか、長いこと囁かれている割に誰も何も言わない。言ったらお終いであるからである。日展は今や官展ではない。しかし官展のふりをしている。気分は官展である。日展至上主義を温存し、利用もしている。(中略)

公益法人という根城にどっかと座り込んで、これを利用し、後輩に道を譲らず、ロクに足腰も立たない老作家達が大勢しがみついている。(中略)絵画の作家達は、たとえそれが権力争いが底に絡んでいるとしても憤然と日展から去っている。古くは有島生馬の日展脱退である。いわゆる二科展の誕生である。

書家にはそういう気概がない。派閥争いをしようと意見が違おうと、じっと我慢してしがみついている。(中略)自らの地位と利益の基を放り出す馬鹿はいない。(中略)日展は、日展第五科はフリーでは入選しないというのが審査員に皆解っているというのが問題である。

派閥争い、利権争いを続ける書道界

日展に入選し、特選を取り、日展会員や日展理事になることが、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章への道につながっており、大きな栄誉、名誉が得られる。日本芸術院会員には年間250万円の年金が終身支払われ、文化功労者は年間350万円の終身年金を受け取れる。税金が投入される以上、厳正な審査が行われなければならない。

だが、公正な審査が行われているのか、疑問である。日展の要職に就くことが、書道界の長老たちの力の源泉、利権となっている面がある。実際、書道界では激しい派閥争い、利権争いが続けられてきた。

書壇で、最初に帝国芸術院(現・日本芸術院。1947年12月に名称を変更)会員になったのは2人で、漢字と仮名を調和させる調和体で知られる尾上柴舟おのえ さいしゅうと、「現代書道の父」と呼ばれた比田井天来ひだい てんらい。1937(昭和12)年のことだ。

第2次世界大戦後が終わり、天台宗の僧で、書家の豊道春海ぶんどう しゅんかいが1947(昭和22)年に帝国芸術院(現・日本芸術院)会員になった。豊道は、明治の書道界で、大きな書道集団を形成した西川春洞に師事した人物で、政治力があり、1948年に日展に「第5科 書」を新設するため、国会に請願するなど、行動力があり、書道界で力を持っていた。

帝国芸術院会員の比田井天来が亡くなり、尾上柴舟が1957年に亡くなると、豊道は、師匠である西川春洞の子息、西川寧を日本芸術院会員に推挙した。これに対して、反対運動が起きた。日本芸術院会員の2人の書道枠を、西川春洞の門下が独占するのは横暴だという理由からだ。

比田井天来の門下で、国定教科書の書を揮毫してきた鈴木翠軒すずき すいけんを推す飯島春敬いいじま しゅんけい金子鷗亭かねこ おうていらが1958年に書壇協議会を結成して、激しく対立した。西川寧が日本芸術院会員になることは見送られ、1960年に鈴木翠軒が日本芸術院会員になることで決着した。この派閥争いは「書壇協議会事件」と呼ばれている。

書道文化研究家で、日本書芸院学術顧問、成田山書道美術館研究員などを務める西嶋慎一は『五十年の回顧 ある書道編集者の軌跡』(芸術新聞社)で、次のように回顧している。

(日本芸術院会員の)補充候補を委嘱された豊道春海は、西川寧を推す。書道界は、この豊道の判断を聞き激震に見舞われる。二人しか定席のない日本芸術院会員に同門の二人が就くことへの反撥である。飯島春敬、香川峰雲かがわ ほううん、金子鷗亭、金田心象かねだ しんしょう桑原翠邦くわはら すいほう手島右卿てしま ゆうけい中台青陵なかだい せいりょう南不乗みなみ ふじょう等は書壇協議会を結成、反豊道運動を興す。書壇協議会は鈴木翠軒を推した。(中略)

この争いの結末は激しい変革を書道界にまき起こした。翌一九六一年、第四回日展で、豊道は顧問に祭り上げられ失脚し、謙慎書道会をも離れることとなる。鈴木は常務理事となって日展を牛耳る。書壇協議会を背景とした鈴木の力は圧倒的で、飯島春敬、金子鷗亭、金田心象がいきなり日展会員となる。(中略)

これ以降、日展にかかわる書家は、鈴木の圧倒的な力を感じながら行動することになる。この状況は、一九六九年日展が改組され、七十五歳定年制が布かれ鈴木が引退するまでの十年間続くこととなる。(中略)。

西川(寧)、青山(杉雨)は豊道派であって、いわば反鈴木の立場であったから、この状況をより激しく受けることとなる。鈴木が(日本芸術院)会員となった時、青山は生涯冷や飯を食う覚悟であった、と後年述懐している。西川も(中略)行李一杯の原稿がある、しばらく研究に専念だと述べたと聞く。

誰が日本芸術院会員になるか、誰が日展の実権を握るかによって、反対勢力の陣営は戦々恐々とし、冷遇されるのが書道界の実相と言える。

権力闘争、不公正な人事、身びいきの審査、金権体質は書道界では至極当然のように行われていた。しかし大手新聞社など、マスコミは書道界の実態を報道せず、表面化することはほとんどなかった。

『戦後日本の書をダメにした七人』で大渓洗耳が指摘したように、展覧会のたびに、審査員や師匠に取り入るために、お金を使っているなんて人には言えないのだろう。不利益を被る恐れがあるので、審査の不正、金権問題を告発する書家がいなかったため、書道界の内部事情が世間に漏れなかった。

不正が蔓延る書道界を震撼させた大事件

だが、2013(平成25)年10月、書道界や日展を揺るがす大事件が起きた。日展の「書」の審査で不正が行われていたと、朝日新聞が報じたのだ。

文部省美術展覧会(文展)が1907年から始まり、帝展(帝国美術院展覧会)、新文展(新文部省美術展覧会)、戦後の「日展」へと名称を変えながら、日展は、日本の美術界の最高峰として君臨してきた。

長い伝統を持つ日展は、1958(昭和33)年に民間団体に衣替えをし、社団法人日展となった。政府が取り仕切る「官展」から民間事業者が行う「民展」に生まれ変わり、2012年には公益社団法人になっている。

営利目的ではなく、1つの社会的存在として行動する組織の社団法人から、より公共性が高い公益社団法人に格上げされた翌年に、朝日新聞のスクープがあった。

朝日新聞は日展の不正審査を1面トップで大々的に報じた。2009年の第41回日展で、入選者の数を、前回と同じように書道団体に割り振るように、審査員が書道界の長老から指示されたというもの。「天の声」を発したとされるのは日展顧問を務める日本芸術院会員で、書道界の重鎮だという。

朝日新聞の取材に対して、日展顧問は「審査主任が勝手にやったことだ」と関与を否定したが、スクープをした時点では、その審査主任はすでに死亡しており、証言の信憑性は判然としなかった。

ただ、日展顧問は「書の4部門(筆者注。漢字、かな、調和体、篆刻)について、審査前に日展理事らで合議して、入選数を有力会派に割り当ててきたことは認めた」と朝日新聞は報じている(2013年10月30日朝刊の1面)。

他のマスコミも書道界の問題を大きく取り上げ、日展の審査疑惑を調査する「日展第三者委員会」が設置され、元最高裁判事の濱田邦夫を委員長とし、弁護士などが実態を調査することになった。

日展顧問を務める日本芸術院会員は、2010年に文化功労者にもなっていた古谷蒼韻ふるたに そういんで、日本書芸院最高顧問、読売書法会最高顧問を務めた人物だ。

日展第三者委員会は、日展の書について「日本芸術院会員を頂点とし一般公募者を底辺とするヒエラルキー(ピラミッド型階層差組織)が出来上がっており、トップの発言権が極めて強いという長老支配の組織運営の実態が明らかになった」と指摘。

2013年12月5日に報告書を公表した日展第三者委員会は、朝日新聞が報道した日展顧問である「丙氏」について、以下のように責任を問い質している。

丙氏については、長年、書道界において指導的立場にあり、かつ日展においても、理事・常務理事・顧問と重責を務め80歳代後半に至るもなお日本芸術院会員として、日展書の頂点に君臨しており、同氏を師と仰ぐ有力な弟子達もあまたいて、日展審査においても同氏の考え方や精神が標榜され発言される現状をみると、丙氏の具体的な介入がなかったと否定し去ることはできない。(中略)

(書道界の)師弟関係は強固であり、生涯継続する。また師匠は門下に対し強い指導力を持ち、展覧会へ出品するか否かも師匠が決める。

このような師弟関係を基礎として、「社中」が組織され、社中を主宰する師匠が集まって上位の社中を結成する。これらが重層的に積みあがって、いわゆる「会派」が結成される。これらの会派を統括する「書道団体」も存在する。書道団体としては、東京の謙慎書道会、西日本を中心とする日本書芸院が二大勢力である。(中略)

会派の長期的発展のためには、特選受賞者を多く誕生させ、審査員を経験させて日展会員、役員にし、会派の入選者を多くする必要がある。そのための第一歩が特選の受賞である。特選受賞2回で出品委嘱者(筆者注。審査を経ないで、日展の展覧会に出品できる者)となり、次に審査員経験で日展会員となり、順次階段を昇っていく。そのエスカレーターの重要なステップに特選が位置しているため、特選を誰に与えるか、どこの会派がとるかは極めて重要な事項である。この点に関し、日展上層部が決めているというのが日展会員の共通した理解であった。(中略)

 現在の書の審査に関連して、金銭のやりとりがなされるという風聞に関しては、本委員会における短期間の調査においても、内部情報を含めいくつも見聞することができた。

日展第三者委員会は短期間の調査でありながら、書道界の問題点を突き止めた。長老が審査員の選出などで、強い権限と影響力を持ち続けており、金がものを言う特殊な社会だと看破した。

そして、日展の書の審査では、定款、規則、慣行を変更し、不正やルール違反に対し厳罰で臨むといった抜本的な変革が必要だと提言している。

悪弊から抜け出せず、旧態どおりの日展審査

日展は審査体制の改革を行い、「改組 新 第1回日展」として2014年に出直したが、日展の審査システムに大胆なメスは入っていない。

書道界のスキャンダル後、「書道美術新聞」(美術新聞社)は、日展入選者の会派別人数を紙面に掲載した。「改組 新 第1回日展」(2014年)と「改組 新 第2回日展」(2015年)の会派別入選者数を見ると、有力会派の入選者数は2回ともほぼ同じ、という結果だった。

日展第5科(書)の入選者の85%は、読売書法会を構成する日本書芸院と謙慎書道会の2つの書道団体が独占しており、日展では読売書法会系の書道団体が突出した存在になっている。

逆の言い方をすれば、読売書法会を構成する日本書芸院と謙慎書道会に属していないと、日展ではほぼ入選できないということだ。書に自信のある人が「生涯に一度は日展に入選したい」と思って、1万2000円の出品料を払って作品も送っても、無駄な行為とも言える。

読売書法会による独占という構造を許している日展は、「国内最大の公募美術展」という本来の姿、役割を果たしていると言えるのだろうか。

日本書芸院と謙慎書道会が日展の「書」を支配していることは、書道界では常識だとされ、書道分野での日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者の多くも、この2つの書道団体の関係者が独占している。

「日展に入選したいのなら、入門する書道団体を選びなさい」というのが定説。第5科(書)の審査員数は毎回17人(さらに外部審査員が2人)で、毎年、入れ代わるが、審査員の多くを日本書芸院と謙慎書道会の書家が確保している。

2011年から2023年までの計13回の会派別の分布を調べると、13回の合計数221人(17人×13回)のうち、日本書芸院が121人(54.8%)、謙慎書道会が63人(28.5%)、合計で184人。83.3%に達している。

主な書道団体が40ほどあり、教育系の書道団体やユネスコ登録のための団体を除いて30ほどの書道団体がある中で、この数字は異様である。その他の書道団体等は37人で、16.7%に過ぎない。

日展の審査員(毎回17人)は毎年、おおよそ日本書芸院が9人前後、謙慎書道会が5人前後、その他団体等が3人前後という割り振りになっており、2つの書道団体の入選者の割合は審査員の数に比例している。

審査員たちは自分が所属する団体や会派の書家たちの作品を優先的に入選させるから、おのずと2つの団体の書家の入選が増える。毎回10点ほど選ばれる特選も同様である。

2013年の「天の声」騒動を機に、日展第5科(書)では審査方法が厳格化されたと言われる。日展本部は「審査を厳格化しました」と胸を張っているが、実態は変わっていない。書道会派のリーダーたちは入選した書家たちから「入選料」を受け取る。そうしたビジネスが成立しているのである。

日展に何度も入選している書家の中から、特選に選ばれ、2回の特選の受賞などを経て、会友、準会員になれる。日展には会友、準会員、会員、監事、理事、理事長、顧問などのピラミッド型階層組織ができていて、上下関係が厳しい。

日展第三者委員会の報告書には、以下のような指摘もある。

ピラミッド組織の上位の地位に就くには、特選を受賞し審査員を務めることが条件となっているところ、審査員経験者からのヒアリングで、かつて特選を受賞するため多額の資金が必要とされていたこと、審査員に就任した際推薦した幹部から具体的な金額を指定して謝礼を要求されたことなど、過去にヒエラルキー内での昇進に伴って金銭が授受される慣行が存在していた事実が判明した。

このような慣行を生んだ第5科(書)の組織風土がその後改められ、特選の受賞や審査員就任に金銭授受を伴うという旧来の慣行はもはや存在しないと認定することはできなかった。

芸術の世界のエスタブリッシュメント(上層階級)になるには、日展会員であることが重要で、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章などの栄誉に近づく有力な武器となる。そのため書道界や日展に問題があっても、多くの書家は黙ってしまい、改革は起きない。

日本書芸院と謙慎書道会の金権体質は、日本芸術院会員の選出でも発揮される。「書」の会員枠をめぐり、両団体の有力書家たちは金銭、あるいはすでに日本芸術院会員となっている人々の絵画、彫刻などの作品を買うといった猟官運動を展開していた。

日本芸術院は、院長1人および会員120人以内と定められ、第一部美術、第二部文芸、第三部音楽、演劇、舞踊の3部になっており、部会ごとに、推薦された功績顕著な芸術家を選挙で選び、部の会員の過半数の投票を得た者がなれる。会員は終身制なので、誰かが亡くなって欠員が生じないと、日本芸術院会員になれない。

第1部の美術は定員が56名以内となっており、日本画15名以内、洋画15名以内、彫塑10名以内、工芸9名以内、書4名以内、建築3名以内と枠が決められている。こうした状況では、既存会員たちの覚えがめでたくないと、新会員にはなれない。日本芸術院会員の既得権は大きく、大きな力を持ち得る構造になっている。

日本芸術院の閉鎖性、選考の不透明性が問題となり、日本芸術院の会員選考の在り方などを検討している文化庁の有識者会議は2021年5月、新会員を現役会員による推薦、選挙のみで選ぶ現行方法を改め、外部の意見も反映させることで透明化を図る見直し案を作成した。この時点で、定員120人以内という規定がある中、会員の数は100人であった。

見直し案では、国際的に評価の高い日本のアニメなど、文化芸術が多様化しており、マンガ、デザイン、写真、映像、映画など、選考対象分野の拡大も求めていた。また、日本芸術院の女性会員が全体の17%にとどまっており、ジェンダーバランスに配慮することも要請している。

有識者会議の提言を踏まえて、日本芸術院は各ジャンルの定員枠を取り払い、翌2022年、ちばてつや、つげ義春の2人をマンガ界から日本芸術院会員に選んだ。

だが、現役会員による推薦と選挙を規定している「日本芸術院令」を改訂しておらず、選考の手順は旧態依然のままだ。2024年には、書から土橋靖子が日本芸術院会員になっており、書で5人目の芸術院会員となった。

朝日新聞のスクープがあった2013年の前後で、日展はどれだけ変わったか。2004年から2013年の10年間で、読売書法会系の特選受賞者は100人中、85人だった。2014年から2023年までの10年間の読売書法会系の特選受賞者は81人。2016年は5人だったが、それ以外の年は、ほぼ同じペースで特選を独占。入選者も、特選受賞者も85%という数字が一致しているが、奇妙である。

不正審査を調査した日展第三者委員会は、師弟関係を基礎として、「社中」が組織され、さらに「会派」が結成され、会派を統括する「書道団体」も存在すると指摘した上で、「書道団体としては、東京の謙慎書道会、西日本を中心とする日本書芸院が二大勢力である」と記載している。

あえて、具体的な名前を調査報告書に盛り込んだのは、謙慎書道会と日本書芸院の2大勢力が書道界を支配し、その事実が書道界、日展の審査に悪影響を及ぼしていると、暗に問題提起したかったのだろう。

日展第三者委員会は、日展と書道界が大改革を断行し、健全な運営体制を期待していたと思われるが、書の世界は、その後10年、さほど変わっていない。

昨今の書道界はどうなっているのだろうか。パソコンやスマホの普及で文字を書く機会が少なくなり、筆、墨、硯、紙が必要な書をしたためる機会はますます減少している。書道に親しむ書道人口が2016年には463万人いたが、2021年には381万人に18%も減っている(総務省統計局の「社会生活基本調査」)。

書道人口が減っている中で、書道界が脚光を浴びるかもしれない2つの動きがある。1つは、文化財保護法が改正され、2021年12月、「書道」と「伝統的酒造り」が初の「登録無形文化財」となったのだ。登録無形文化財は、歴史上または芸術上、価値の高い「わざ」を持つ無形文化財を「登録」するという新制度で、その第1号となった。

2つ目は、文部科学大臣や文化庁長官の諮問機関である文化審議会が2023年12月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産の候補に「書道」を選定し、2026年の登録を目指すと決め、2024年1月、ユネスコ無形文化遺産への提案を決定した。

文化庁は書道を「筆、墨、硯、紙などの用具用材を用いて、漢字、仮名、漢字仮名交じりの書、または篆刻として、伝統的な筆遣いや技法の下に、手書きする文字表現の行為」と定義している。

筆、墨、硯、紙は文房四宝ぶんぼう しほうと呼ばれ、用具用材への理解を深め、書芸術の魅力を高めてきた。文房四宝をコレクションする人も多く、貴重な品は商取引の対象になっている。

ユネスコの無形文化遺産登録前にクリアすべき

日本の文化が初めてユネスコ無形文化遺産に登録されたのは2008(平成20)年で、能楽、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎であった。その後、22件が登録されており、2013年に「和食 日本人の伝統的な食文化」が登録されると、出汁だしを重んじる和食が注目され、海外での日本食ブームを後押しした。日本の食を求めて海外からの来訪者も増加し、「食育」が世の中に広まった。

和食がユネスコ無形文化遺産に登録された2年後の2015(平成27)年に、「日本書道ユネスコ登録推進協議会」が誕生した。「日本の書道文化」をユネスコ無形文化遺産に登録することが目的で、全国書美術振興会、全日本書道連盟、日本書芸院の3つの団体が立ち上げた組織だ。

さらに、2021(令和3)年に「日本書道文化協会」が発足する。書道でのユネスコ無形文化遺産登録をバックアップしようという動きが出てきたのだ。政治家や大手新聞社、通信社のトップが特別顧問となり、書道界の重鎮が会長、副会長や顧問、理事などに名を連ねている。

書道がユネスコ無形文化遺産に登録されると、国内外で書道への関心が高まり、訪日外国人観光客が書道体験イベントに参加するなどのブームが起こり、日本でも書道文化が見直されるという期待があるのかもしれない。

だが、日本の書道界にはクリアすべき問題があるのではないか。書道界の不正審査問題で、日展第三者委員会の委員長を務めた濱田邦夫は報告書で、以下のように総括している。

美や芸術の世界は、作家や鑑賞者たちに『生きる歓び』を与えるものである。また『金と権力が成功のあかし』といった世俗社会から超越したもの、と一般社会は期待している。残念ながら、我々の調査の結果、日展第5科書の在り方はこの一般社会の期待を裏切っているのではないか、という疑念を晴らすことができなかった。この疑念は第5科だけに限定されるものではなく、日展の他の科についても程度の差はあれ、潜在していると思われた。また公益社団法人として、日展の運営体制については改善の余地があると思われた。

書道がユネスコ無形文化遺産に登録された後で、書道界、日展での審査の不正、長老支配、いびつな上下関係、金権体質が明らかになると、世界から嘲笑されるのではないか。

書道のルーツである中国は2009年にユネスコ無形文化遺産に登録されており、登録済みの書道は世界に5つある。

2009年  中国の書道
2013年  モンゴル書道
2021年  アラビア書道の知識、技法および実践
2021年  ヒュスニ・ハット、トルコのイスラム美術における伝統的な書  道
2021年  イランの伝統的な書道を守るための国家プログラム(ペルシャ書道)

日本の書道界は2026年のユネスコ無形文化遺産登録を目指しているが、お金、人事、審査でクリーンであることが、書壇や書作品の価値が多くの人に理解され、尊敬される文化になるのではないか。

美術品の流通市場で、書の作品の取引は活発ではない。書作品を専門とする美術商は少なく、骨董的な価値や誰が揮毫した書か、という点に市場価値がある。現代の書が美術商で流通するためにも、公募展での公明正大な審査や評価が求められている。

日展や書道界、日本芸術院に自浄作用がないのなら、日展第三者委員会、書道界第三者委員会、日本芸術院第三者委員会を設置して、問題を洗い直し、第三者による変革を断行すべき刻が来ている。

変革をしなければ、日展も、日本芸術院会員も、文化功労者も、文化勲章も輝きを取り戻せなくなるのではないか。

書道界の最高峰に君臨してきた人々が    受けてきた栄誉は以下の通り

日本芸術院(旧・帝国芸術院)会員 書

物故会員
1937年 尾上柴舟       漢字と仮名を調和させる調和体を研究
1937年 比田井天来   「現代書道の父」と呼ばれる
1947年 豊道春海       西川春洞に師事。天台宗の僧
1960年 鈴木翠軒       国定教科書の書を書く。「翠軒流」と呼ばれる
1962年 川村驥山       東方書道会を結成。驥山館を開館
1969年 西川 寧       謙慎書道会
1971年 松本芳翠       日下部鳴鶴に師事
1972年 安東聖空       日下部鳴鶴に師事
1977年 日比野五鳳   かなを独学で研究
1983年 青山杉雨       謙慎書道会
1985年 村上三島       日本書芸院
1989年 杉岡華邨       日本書芸院
1993年 小林斗盦       謙慎書道会
2006年 古谷蒼韻       日本書芸院
2008年 日比野光鳳      読売書法会常任総務
※帝国芸術院会員を含む

現役会員
2012年 井茂圭洞      日本書芸院
2019年 黒田賢一      日本書芸院、正筆会(かな書道研究会)
2020年 髙木聖雨      謙慎書道会
2022年 星 弘道      日本書作院
2024年 土橋靖子      日本書芸院

文化功労者  書道・篆刻

1967年 豊道春海(書道)   西川春洞に師事
1968年 鈴木翠軒(書道)   『国定甲種小学書方手本』などの揮毫者1977年 西川 寧(書道)   謙慎書道会
1980年 安東聖空(書道)   日下部鳴鶴に師事
1982年 手島右卿(書道)   比田井天来に師事
1983年 日比野五鳳(書道)  かなを独学で研究
1987年 金子鷗亭(書道)   創玄書道会 比田井天来に師事
1988年 青山杉雨(書道)   謙慎書道会
1993年 村上三島(書道)   日本書芸院
1995年 杉岡華邨(書道)   日本書芸院
1996年 上條信山(書道)   学校教育で書道を必修に、と説く
1998年 小林斗盦(書道・篆刻)謙慎書道会
2001年 成瀬映山(書)    謙慎書道会
2002年 大平山濤(書道)   金子鷗亭に師事
2006年 高木聖鶴(書道)   日本書芸院
2010年 古谷蒼韻(書道)   日本書芸院
2011年 日比野光鳳(書道)  読売書法会常任総務
2016年 尾崎邑鵬(書)    日本書芸院
2016年 小山やす子(書)   毎日書道会
2018年 井茂圭洞(書)    日本書芸院
2023年 黒田賢一(書)    日本書芸院

文化勲章受章者  書・篆刻

1985年 西川 寧(書)    謙慎書道会
1990年 金子鷗亭(書)    創玄書道会 比田井天来に師事
1992年 青山杉雨(書)    謙慎書道会
1998年 村上三島(書)    日本書芸院
2000年 杉岡華邨(書・仮名) 日本書芸院
2004年 小林斗盦(書・篆刻) 謙慎書道会
2013年 高木聖鶴(書)    日本書芸院
2023年 井茂圭洞(書)    日本書芸院

参考文献

『書道百科事典』              阿保直彦 編    木耳社
『決定版 日本書道史』           名児耶明 監修   芸術新聞社
『日本書道史年表』             名児耶明 編    二玄社
『現代書家の素顔 昭和二桁世代』         田宮文平      全日本美術新聞社
『五十年の回顧 ある書道編集者の軌跡』   西嶋慎一             芸術新聞社
『楷行草 筆順・字体字典』                         江守賢治 編       三省堂
『戦後日本の書をダメにした七人』              大溪洗耳              日貿出版社
『続・戦後日本の書をダメにした七人』      大溪洗耳              日貿出版社
『国際/日本 美術市場総覧』       瀬木 慎一             藤原書店
『日本博物館総覧』            大堀哲 編著    東京堂出版 

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