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【心が銭湯に浸かるように温まる】ばあちゃんと過ごした幼少期の話。

ふと何故か婆ちゃんのことが思い出された。

冬だからだろうか。少し寒い感じがする。

婆ちゃんの家はお風呂がなかったから、よく近場の複数ある銭湯の定休日になってない方によくいった。「緑湯」とかそんな名前だった気がする。

その身体に刺さるような寒さがそういったノスタルジーを誘うのか。

屋台が空いていたらベビーカステラを食わしてくれた。

そんな婆ちゃんは駄菓子屋のオーナーだったのに。

親は共働きだった。

今振り返ると小学校から自宅までは自転車で10分程でそこまで遠くないのだが、小学生の徒歩からすると割と遠かった。

だから僕はよく婆ちゃんの駄菓子屋兼ハウスに滞在した。

そこは商店街のど真ん中のようなところで、沢山の人が来ては僕と婆ちゃんのオセロの邪魔をした。

婆ちゃんは僕に負けては笑って喜んでくれた。

僕が高校を第一志望で受かった時、両親に告げて真っ先に婆ちゃんの家と二階の今は亡き爺ちゃんに通知を見せに行った。

僕は婆ちゃんが先祖を大事にするのや毎日仏壇に花瓶を置いたりお供えをするのを背中で見て育った。

婆ちゃんは僕と一緒にいて拝んでいる時はいつも「こんな立派に育ちました」とか手を合わせて色々な感謝を述べた。

だからその日は特に婆ちゃんは喜んでいつもより長く仏壇に拝んでいた。

それも婆ちゃんの歴史に関わるらしい。

婆ちゃんは戦争を経験していたし、本当に貧しい暮らしをしていたのだ。

実は僕は爺ちゃんのことはあまり記憶していない。

本当に悲しいことだが、写真で爺ちゃんが赤子の僕をおぶってくれているのを見て知るくらいだ。

小さい頃は誰のお墓なのかも分かっていなかった。

今でも「爺ちゃんとお酒なんか一緒に呑んで話せたらな」と無意味であること甚だしい願望が起こることがある。

とにかく婆ちゃんは苦労人だった。

だからこそ、ちゃんといい学校に行って勉強することを本当に喜んでいたし、僕には不自由ないようにジュースやお菓子やご飯など暇を見つけては「要らないか?」と尋ねてきた。

僕は家庭的なこともあったりか遠慮をした。

末っ子なのにしかもとてもチビなのに親戚の人たちも不思議がった。

そんな婆ちゃんとおじゃる丸が終わるまでずっと居た。学校を終えてからずっと同じことを繰り返していた。学校からは徒歩で三分くらいだ。

泊まれる日は婆ちゃん肩揉みをした。

婆ちゃんは気持ちが良いとゲップをした。
(※決して下品だと思わないで欲しい)

それを僕は阿保のおかしくて笑った。

今思うと婆ちゃんは間違いなく僕にわざとオセロも負けていたし、そういう変なことをしてくれていたんだろうと思う。

そして僕はそこで寝る夏のタオル生地のシーツや、分厚いぬくぬくの毛布が大好きだった夜は窓からバイクの走る音が聞こえた。

婆ちゃん家には天花粉(ベビーパウダー)だったり、コンセントに繋げて足を温めるパットみたいな古きおかしなものが沢山あった。

電話も勿論、穴があって指でダイヤルを回す類のものだ。

そんな婆ちゃんから、

僕はとても沢山のことを学んでいたのだと改めて気づかされる。

子供は親の背中を見て育つというように。

一旦エピソードを含めそれらを次回で紹介したい。

婆ちゃんが意識しているか分からない秘伝の生き方だ。

ざっくりとこんな感じだ。

■エピソード
①僕の盗人としての大失態
②圧倒的Give精神
③人との繋がり
④お金の重要性
⑤歴史・仏様・感謝の心


上記だけ見ると少し固い気もするだろう。

それはそうだ僕の婆ちゃんは、今は八十をとうに超えて当時は七十近くだったのだから。

本当に戦後の苦労を重ねた世代なんだと思った。

婆ちゃんから時たま聞かされる話は同じことが多かったし、人の固有名詞が出過ぎて難易度が異常だったがその内容はどれも想像を遥かに越えた。

■衝撃的な数々
・学校をやめさせられ飛行機を作っていたとか
・裸足で商売をしていたこともあったとか
・婆ちゃんの父が中国で亡命したとか
・爺ちゃんがとんでもなかったとか

婆ちゃんは早くに父を亡くしていて、生計を自分でたてていた。

婆ちゃんから聞かされる爺ちゃん像はとてつもなかった。ただ僕は爺ちゃんをよく知らないしその点は受け流していた。

今でも恋愛の相談のように片方の言い分だけを聞いて共感をし過ぎるのはよくないと思う。

その点はチビにしてはやるなと自分でも思う。

しかも昔のことでそれが真実かも分からない。親父もそれについて話したがらないし、それが父が奮闘した原点なのだろうと今想像する。

それもあってか「貧しさ」には婆ちゃんは特に敏感だった。

だから僕には決してそんな想いをさせないようにしていたのだと思う。

そして学問の重要性と貴重さを僕に必死に伝えてくれた。

当時の僕は宿題なんて嫌で嫌で仕方なくゲームをしていたかったため、一体何が言いたいのか全く分からなかった。

ただ婆ちゃんが喜ぶ姿を見るのは本当に好きだった。

そういえばゲームボーイの為に百均に行っては、単三電池を買っていたのが懐かしい・・・夜に電源がなくなる絶望も懐かしいもんだ。

ただ面白いことに、

婆ちゃんは「こうしろ」「ああしろ」と僕には絶対に言わなかった。褒めてくれたり、沢山話を聞かせてくれたりしただけだ。

その点は親父と雲泥の差がある。祖母とはそういうものなのか?

とにかくそれが僕にとってとても居心地がよかった。

婆ちゃん家にいれば当時僕は色んなものから解放される気分だった。

そんな婆ちゃんとの日々。

僕は少しずつ大人になっては実家の大阪に顔を出す。

僕は少したくましくなって婆ちゃんは僕の名前を少し間違えたりするようになった。

ただやっぱり僕のことはずっと覚えてくれている。

あんだけ長いこと婆ちゃんと春夏秋冬を過ごしたから。

チェリオかの「日本のサイダー」をガラスコップに分けて婆ちゃんと飲んだのが懐かしい。

婆ちゃんの家はお菓子にジュースに何でもあり、まるでそれは宝庫のようだった。当時は本当に甘やかされていたなと思う。駄菓子屋だけに。

だから僕は今あまりお菓子を食べない。

十分なほどに婆ちゃんと過ごして食べたからだ。

そんなことはどうでもいい。

それでは次回のノートで遂にエピソードと教訓を堪能あれ。

生き方や商売人としての婆ちゃんに敬意を込めて。
何より婆ちゃんに感謝を込めて。
本当に偉大な婆ちゃんにまた笑顔を届けられるように。

僕はまだ東京で頑張りまんがな。

それじゃ次回書きまっせーー

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