実録 宮本武蔵 ♪01♪ 最初の石碑、武蔵塚
武蔵塚
1645年5月19日、宮本武蔵は熊本で亡くなります。この時、熊本の細川藩によって建立されたのが武蔵塚です。
熊本城から北東方向に直線7kmの地で現在は武蔵塚公園になっています。
新免武蔵
碑には
右肩に布武天下一 (ちょっと怪しい)
中央に新免武蔵居士石塔
右下に正保二乙酉年
左下に五月十九日と
正面にあるのみで両側面や裏面には何も書かれていません。
宮本武蔵の筈なのですが、宮本の文字はどこにも見当たりません。
往復書簡
熊本藩の困惑ぶりを示す史料が原田夢果史さん『真説宮本武蔵』にありましたので紹介します。熊本藩に残されていた、武蔵逝去前後に熊本藩の松井寄之と武蔵養子・宮本伊織との間で交わされた書簡の写しです。内容は武蔵の病状や葬儀御礼などですが、注目したのは両者の武蔵呼称です。
宮本伊織は一貫して宮本武蔵と呼んでいますが、熊本藩・松井寄之の方は武蔵逝去直後までは宮本武蔵ですが、その後は武州となり、武蔵塚では新免武蔵です。
新免という苗字
このマイナーな苗字を熊本藩が自発的に付けたとは到底考えられず、武蔵からの申し出(遺言)と考えます。
新免姓は現代でも岡山県の東北部、美作地方が最も多く、その美作に1350年頃~1600年までの間、武家の新免家が存在しました。直系子孫は当然新免を名乗りますが、有力家臣にも特別な時(いわゆる、晴れの日)に新免を名乗ることを許します。(改姓する訳ではないので勝手に併用姓と呼んでいます)
武蔵は自身の死を門出と捕えて新免と名乗りたいと遺言したのではないかと考えます。
これらを事前に聞いていた宮本伊織はすこしも慌てませんが、事情を知らない松井寄之は伊織との関係などをおもんばかって武州になったのでは考えます。
武蔵の待遇
藩主・細川光尚の叔父にあたる松井寄之が世話役で、藩主が参列しての葬儀、武蔵塚と熊本藩が武蔵をどれ程重要視していたのかが判ります。
実は武蔵は熊本藩の大恩人なのです。
そのことはおいおい。
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