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夢を解く時 - 集合的無意識、メタヴァース、パラレルワールド、そして来るべき社会福祉

我々が夢を解く時、むしろ夢は我々に問いかけている。

夢占いとやらから始まり、もうかれこれ30年ばかり夢を解き続けていると、夢の側でも私の意思を汲み取って、ではこのイメージを解いてみろ、と、謎掛けをされているように感じるのだ。
(つまり夢にはクリエイターがいる - それはもちろん、ただ単に昼間の意識にのぼってこないというだけで、私自身が完全には把握できていない私自身の一側面であることは確かだ。スフィンクスの有名な謎掛けの答えが「人間」であることからも、それが見て伺える)

そうした夢、一続きのイメージは、もちろん現実世界の体験からの影響は言うに及ばず、完全なる中二的知的好奇心から加速するように培われてしまった、象徴に関する知識から派生しているものもあり、これまでに見た何らかの画像、映像、創作作品からの影響もあり(これらも象徴や集合的無意識の影響下で生まれたものであるから、それらの同義語とも言える)、また所謂、集合的無意識からも絶えず派生しているようで、見慣れぬシンボルが登場すると、その度にまた検索をかけることとなる (thanks to internet)。そこで得た知識がまた変容して新たなイメージを作り出し、これが毎晩のように再生産される。かくしてパラレルワールドかと見紛うような、ある程度秩序立った一大世界が築き上げられている。いや、それは"物理的に実在する"という条件さえ外せば、すでにパラレルワールドそのものだと言えるだろう。
少なくとも現状、わたしの夢の中では2つのある程度秩序立って確立したパラレルワールドが進行中で、過去のものを含めるとこれまで5、6個は確認している。今日(昨夜?)も、もちろん滞在していた。皆さんはどうですか?

メタヴァースとは、こうしたパラレルワールドをデジタルな技術により具現化した仮想空間であり、デジタルなアクセスを通し、非常な大人数が同時に共有・体験できるようにするプロジェクトであり、それはいわば、我々が知覚できる全生命体により(人間以外の生命体も夢を見る)、非常に長い時間をかけて、夢の領域で生成・運営・保持されてきた集合的無意識への侵略的行為であるとも言える。

メタヴァースこと、擬似三次元の仮想空間に高度に没入し、長時間滞在することが当たり前になった時、人間の脳は夢とそれらを別個のものとして判別し、夢の領域から除外することができるだろうか。肉体的実感を伴う現実とすら錯綜してしまう可能性がある程のクオリティに達した、擬似三次元上の仮想空間での体験を、まして夢と除外することはできるだろうか?一次元の文字から喚起されたイメージ、二次元の平面の画像・映像の視聴ですら夢に影響することが一般的事象である事からしても、それは難しいと言える。
ただ、この侵略的行為は果たして敵対的であるのだろうか?

集合的無意識を"発見"したなら、それを模倣してみようというのも、人間の集合的"意識"が当然のように向かう先であり、やはりここは一概に否定的に見てはいけない。創作というものが、そもそもこうした試みの一環であり、なかでも写真、映像というのはそこにかなり大きく踏み込んだ一歩であった。何より直近でいえば、インターネットは、その仕組みそのものが集合的意識/無意識の模倣である。これはweb1.0の時点でそうだ。私は所謂インターネット老人会の2世代目か3代目程度(パソコン通信とは呼ばれずインターネットと称されるようになり、接続の度にモデムが騒々しく鳴り響いていた頃)からこの空間に没入していた人間で、それ以前、幼少期から紙の本と音楽と視覚芸術を愛好し、むしろ耽溺の域にまでいた。私の意識と無意識は確実にこれらの影響下 (under the influence) にある。

それでもなお、メタヴァースと、従来の集合的無意識の模倣物の体験の違いを定義してみる。従来のものはすべて、集合的意識/無意識から流れ出たものを一旦人間が受け取り、それを再生成してこの認識の世界に再度放流したものであった。だが、メタヴァースとは、認識の世界そのものを模倣する試みであるため、そこでの認識・体験から集合的無意識に還流されるもの自体が、従来とは別種のものとなる。ここにこそ、大きな違いがある。

先述の通り、従来の集合的無意識は、人間以外の生命体ともある程度共有されていると思しきものであり(同じ物質的世界に生きているからにはそう言って良いであろう)、そこに人間がメタヴァース上で認識・体験から生成されたものが侵入していく事は、つまり全生命にとって初の状況である。

その時、集合的意識/無意識に何が起こるか。

おそらくこの先、人生の大半を"古き良き集合的意識/無意識"と共に過ごしてきた、古い側の人間となるであろう私にとっては、メタヴァース由来の成分が無意識の領域に侵入するという事態は、やはり驚異である以上に脅威であると言わざるを得ないのだ。よって、現時点では、でき得る限り関わらないで居たいと思っている。

note上のペルソナには私生活を持ち込むまいと思っていた。しかし、つい耐えきれず、ここで公開している詩の1作でも触れてしまったのだが、只今寝たきりの義母をソロ介護している。ベッドから動けず、一日の殆どをスマホでYoutubeか、TVを観るか、もしくは長電話をして過ごしている様子は、時折なんとか時間を作って訪ねてきてくれる相方(つまり義母の実の息子)をして「実質メタヴァースにいる」と形容された。それには私も全く同意である。

この、プロトタイプ・メタヴァースに居る義母の様子から予想される近い未来図を心に描く。この先、我々世代が後期高齢者になる頃には、どれだけメタヴァースに関わらないで居たいと思っても、強制的に福祉としてのメタヴァースに放り込まれるであろう事がほぼ確定しているからだ。それは、メタヴァースと、メタヴァース由来の成分が十分に浸食した集合的無意識と共に生きている (under the influence) 世代の判断により、何の抵抗もなく、善意の了承の下で成されるだろう。余程インフラが破壊される事でもない限り。最寄りの市役所はMSベースで稼働しており、サム・アルトマンがMS入りする、それはすなわちそういう未来図が本格起動するらしいということだ。

その時、私は何を見る(観る)のか。

同世代が2ch用語を駆使してネットミームを飛ばし合ったり無益なマウント合戦を延々しているのを、いつまであんな調子でやっているのだ、と遠巻きに眺めつつ、恐らく2000年代位の街並みが(頼んでもないのに)再現された中にある仮想のシネコンやカフェや図書館にでも引きこもるか、もしくは突発的に発生する風光明美なシークレットレイヴ会場に運良くたどり着いて悦に入るか、といったところだろう。そこにはもしかしたらもう(現在の時点で)10年程会ってない友人もうっかり居たりするかもしれない…いや、そんなシークレットレイヴなんて、欧米圏のプレミアムプランの設計者あたりしか思いつかないだろうから、私程度の一般日本国民ユーザーが入れるエリアにはなさそうだ。
良くてせいぜいレトロな夏祭りで、浴衣の柄を選ぶ程度の遊びだろう。

それは、私が今日見たパラレルワールドの夢と大差無いし、見られるイメージに制限がなく、課金する必要がない点、また道徳的監視が及ばない点については、まだ夢のほうが優っている。
今のところ(想像が及ぶ範囲で)は。

我々が夢を解く時、むしろ夢は我々に問いかけている。


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