過去の自分は情けないが、それはうれしいことでもある
約半年ほど、noteの更新を止めてしまいました。
とくに理由があるわけではないけど、なんとなく書く気持ちが湧いてこなかったのです。もしかしたら楽しく続けていたつもりでも、知らず知らずのうちに"書くこと"を自分に強制してしまっていたのかもしれません。
でも私のバイブル「書く習慣」の著者いしかわゆきさんは、書き続けるということについてこう言っていました。「毎日じゃなくても、一度更新が止まってもまた始めたら続けていることになる」。
その言葉を励みに、ここからまた、書くことを始めてみたいと思います。
振り返る、自分の黒歴史(過去記事)
文章を書くことが久しぶりになると「あれ?私、どんなふうに書いてたっけ?」と迷子になってしまいます。そこでこれまでの自分の記事をざっと振りかえってみました。
自分の文章を振り返るということの、まーなんと恥ずかしいこと!恥ずかしすぎて変な声上げたくなるほどでした。(そういうとき、ありません?)
で、なにが恥ずかしいって「なんかかっこつけようとしている」のが透けて見える文章だったことです。
必死に着飾る自分の愚かさ
みなさん、好きな作家さんやライターさんはいますか?わたし、昔から憧れの人のまねをしたくなるクセがありまして、文章でいうといわゆるエモい感じのものとか、小説に出てくる表現みたいなかっこいいものに憧れがあるんです。
過去の自分の記事すべてではないですが、なんとなくそんな感じに見られたい匂いがする、”カッコつけた”ものもあり、
「ひぃぃいいいいい自分きもっ!!!」
と一人部屋でのたうちまわってしまいました。
夏休みの作文の宿題で母親にゴーストライターをしてもらったことがあるくらい←、私はそもそも文章が苦手だし下手です。
そんなやつが、いまさら恰好つけた文章書いてもね、「だっっせーーーー!」ってなるだけなんですよ!カッコつけんな!ドシロートがよ!!
恥ずかしいということは、失敗→過去のモノ
ただ一方でそれに気づけたってことは、いまの自分は過去よりも成長したとも言えると思うんです。失敗に気づけた=その失敗は乗り越えられている、あるいは次からは改善できるレベルにきているということですから。
それに、失敗しないことにはなにも始まらない。
そういう風に考えてみると、「頑張って下手なりにみんなに読んでもらおうと頑張ってたんだなぁ過去の自分。ありがとな。よしよし」というなぞの親心みたいなものが芽生えてきます。
まぁまたおんなじことしちゃう可能性もあるけどね。
それでも書かないよりは全然いいかなと思います。そもそも自分の表現を人に見せるという行為自体、そもそも「恥ずかしい」ことではあるので。
これからも恥をかきながら、楽しみながらこつこつ自分の考えたこと思ったことを発信していこうと思います。
わたしと同じようにnoteで発信しているみなさま。晒し合っていこう、黒歴史。
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