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僕の昭和スケッチ

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「僕の昭和スケッチ」は、昭和レトロを描いたもりおゆうのライフワーク画集。誰の心にもある遠い日の思い出を200枚を超える水彩画で・・・毎週月曜更新予定(祝祭日を除く)。
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#毎日note

冬の日の思い出/少年時代

 「僕の昭和スケッチ」50枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 冬の日に風邪だとお袋に言って学校をさぼったことがあります。 だが、すぐに寝ているのにも飽きて9時頃には私はもう後悔し始めていました。陽の光が障子越しに差し込んで来て外は小春日和のようでした。 部屋の片隅には、15円で買ったヒゴの模型飛行機、在所から送られて来た柿の実、行くはずだった学校の白い布製のカバン。 私は世界で自分が一番つまらない人間のように感じて陽だまりの中にいました。 *僕の昭和

「お好み焼きが10円だった時代」昭和の暮し

 「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ49枚目 <画/© 2020 もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> お好み焼きが10円だった時代があります。 ペラペラのお好み焼きでしたが… それが美味しかったのです。 大きさは、直径20センチほど。屋台のお好み焼きです。 値段は、僕が小学生の頃の記憶で確か一枚10円。 昭和30年代の前半でしょうか。 入っているのは、紅ショウガと天かすにネギだけ。 それを目の前でオジさんが鉄板の上で焼いて、新聞紙に包んで渡してくれるのです。今の

タコ焼きに見る庶民の暮し:昭和レトロ

 「僕の昭和スケッチ」48枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 昭和はインフレの時代でした。 所得倍増などと旗を振られ、庶民の所得は年々上がっていきはしましたが、それを上回って物価もどんどん上がり、暮し向きは中々楽にはなりませんでした。 それが、子ども達の大好きなタコ焼きの値段にも現れました。 今でも覚えているのですが、ある年のお正月にタコ焼きはビックリする程高くなったのです。上の絵を見て頂けばお判りかと思いますが、一個一個の大きさは一回り大きくなった(

続神社の境内/香具師が来た!

 「僕の昭和スケッチ」47枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 学校帰りの神社の境内に「香具師(やし)」が来ている事があった。 香具師とは、フーテンの寅さんでお馴染みの「てきや」のことです。 一番良く見かけたのは、「軟膏売り」、いわゆる「がまの油売り」です。 その口上は中々のものでした。 短刀を片手に、「切ります!」と二の腕に刃を当てる… ぐるりと輪になって取り囲む観客は固唾(かたず)をのんで香具師に注目する… だが… 「とくと、ご覧あれ! 切ればたちま

神社の境内/小学校の帰り道

  「僕の昭和スケッチ」46枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> あなたは学校帰りに何処を通って帰りましたか? 川沿いの道? 商店街の道? 池のほとり? 田んぼのあぜ道…? 僕らはいつもK神社の大きな敷地の中を通って帰りました。 上の水彩は、その神社の思い出を絵にしたものです。 そうです、僕の昭和スケッチを最初から見て頂いているあなたにはもうお判りかと思います。子ども達の間で「おキツネ様」が縁の下に棲んでいると噂されていた、あのK神社です。アタンテ君が泣い

続紙芝居:駄菓子は魔法の箱に入っていた

  「僕の昭和スケッチ」45枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 紙芝居のオジさんが売っていた駄菓子と今の駄菓子との大きな違い、 それはビニール袋になんか入っていなかった、ということです。 駄菓子は裸で木の箱に入れられていました。 それは大抵ボロボロの木の箱でしたが、引き出しの中には色々な駄菓子が整然と詰め込まれていて、僕らにとってはまるで魔法の宝箱のようでした。 ソースセンベイは重ねて引き出しの中、串団子カステラは仕入れた紙の箱ごと引き出しの中…といった

みんな集まれ、紙芝居がやって来た!

  「僕の昭和スケッチ」44枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 駄菓子を買って紙芝居を見る。 (紙芝居の箱の下に駄菓子を入れた引き出しがあり、そこに練り飴やソースせんべい、すこんぶなどが入っていた) 何か買わなければオジさんはやってくれない。 ただ見は徹頭徹尾許されない、それが紙芝居の厳しい掟。 お小遣いがなくて駄菓子を買えない子供は、哀れにもオジさんに追い払われてしまうのです。 けれど…! どっこい、昭和の子ども達はたくましく… いつの間にかこっ

恩師山川利夫画伯に捧ぐ/届かぬ想い

  「僕の昭和スケッチ」43枚目 今日はちょっと私の恩師の話しをさせて頂きます。 これは、私の中学時代の美術教師「山川利夫」先生の似顔絵です。色々調べては見たのですが、写真も何もなく、私の脳裏にあるだけの姿ですから実際の先生と似ているかどうかは正直申し上げてよく判りません。なにしろ、もう半世紀も前の事です。 山川利夫先生は、第一回日展で入選し、第八回で日展特撰、示現会委員もお務めになり、終世を岐阜でお過ごしになった著名な油彩画家です。 ですが、そういった事は随分後になって

続思春期の頃/映画「デボラの甘い肉体」

  「僕の昭和スケッチ」42枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> *この記事は先週の思春期の頃/映画「デボラの甘い肉体」の続きです。 さて、補導される恐怖と恥ずかしさも何のその、 私たち3人は、目くるめくベッドシーンを期待して映画館に入った。 何しろ、「デボラの甘い肉体」です! そりゃあ、誰だって期待します、するなという方が無理です。 デボラの…(なんてsexyな名前なんでしょう!) 甘い肉体!…ですよ! だが… 数時間後、私たちはどんよりと肩を落と

秋刀魚と七輪と与謝野晶子

  「僕の昭和スケッチ」41枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 秋刀魚は七輪で焼くのが一番 昭和の昔は何処の家にもあった七輪 今は何処の家にも無い七輪… 「秋深し七輪なくてただ一人寂しからずや秋刀魚焼く君」                          もりおゆう 庭先で母親が七輪でサンマを焼いた風景は、お爺ちゃん、お婆ちゃんから子供、時に孫までが一つの屋根の下に同居していた大家族時代と共に消えて行った昭和の秋の風物詩です。 あなたのおうちに七

思春期の頃/映画「デボラの甘い肉体」

  「僕の昭和スケッチ」40枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> *女性noterの方は今回は目をつぶってご覧下さい😋 平凡パンチやプレイボーイが見たい! 成人指定の映画だって見に行きたい! 思春期ともなれば、男子の頭の中はもう女の子の事で頭が一杯! だが、ポルノ映画を見に行く勇気はさすがにない。 しかし…! そんなある日待望の映画がついに街にやって来た。 「デボラの甘い肉体」! 背伸びして買った映画雑誌「スクリーン」にもデボラの甘い肉体はページをさ

遠い日の思い出

  イラストエッセイ「僕の昭和スケッチ」最初の一枚 これは子供の頃の記憶です。 或る夏に在所でザリガニ採りに行った帰り道の思い出。 先を歩いているのは、在所の従兄弟です。 バケツからザリガニが逃げ出しているのに気付かず歩いていました。 制作は2005年。ちなみに、仕事の合間をぬって「僕の昭和スケッチ」を始めたのが2016年ですから、昭和スケッチより10年以上前の作品という事になります。けれど、最近になってこの絵を見ると絵のティストは昭和スケッチとはちょっと違うものの、これ

オート三輪、しばしば横転す/田舎の農道

  「僕の昭和スケッチ」39枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> オートバイとトラックのいいとこ取り、と言われたオート三輪。 あなたの街や村にも走っていませんでしたか? 安くて小回りがきいたオート三輪は戦前から1950年代に日本全国を走り回っていました。当時の日本では、まだまだすれ違い困難な未整備の狭い路や曲がりくねった路が珍しくなかったのです。そのため、オート三輪の機動性はなくてはならないもので、酒屋さんから農家まで非常に重宝された車だったのです。 だが

昭和はオニギリの時代

  「僕の昭和スケッチ」38枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 昭和ってオニギリの時代だと思いませんか? だって、お弁当って、それしかなかったでしょう? (貧者の独断) 運動会や、遠足の日に今時の見た目も綺麗で美味しそうなお弁当なんて映画やTVの中の世界でしたよね。(独断アゲイン) ちょっと(そうとう)独断ですが、言って見れば、みんなオニギリだった! 梅干しや、おかか…、たいていそんなものだった。 (いやいや、タクワンは二切れくらいは付いていたぞ。)