#4 完全に不登校になった小学校3年生【7年間の不登校から大学院へ】


・小学2年生までの前回の記事はこちらから



完全に不登校になった小学3年生


 
3年生になって一番大きく変わったことそれはクラスの人数だった。

1、2年生のときよりもクラスが一つ減ったのだ。

3年生に上がらずに転校した子などがいて人数が少し減ったことから、前年までと同じクラス数はギリギリ維持できないとのことだった。だからクラスが一つ減った。ただ、そんな数人の関係でクラス数が一つ減らされてしまったためクラス一つあたりの人数がとても多くなってしまった。

一クラスに40人が詰め込まれ、狭い教室は息が詰まりそうだった。
パーソナルスペースなどは皆無で、隣の席とはもちろん反対側の子までの距離も近い、息ができないほどの圧迫感。


小学校で「35人学級」実現へ 改正法案成立
小学校の1学級当たりの上限人数を35人とする義務教育標準法の改正法案(注)が3月31日、参議院で全会一致により可決、成立した。
現行法では小学校1年のみ35人で、小2~6年は40人だった。今回の改正法により、2021年度に小2を35人とし、その後、学年ごとに順次引き下げ、2025年度に全学年を35人とする予定だ。改正法は4月1日に施行。

先端教育オンライン「小学校で『35人学級』実現へ 改正法案成立」から一部引用





これに加えて、新しい担任の先生はまだこの学校に来たばかりの新米の先生だった。

授業中であっても休み時間と見分けがつかないほどの騒がしさで、授業が始まってすぐに一人が「トイレ!」と言って勝手に席を立ち教室から走って出ていくと、それに五人ぐらいがついて行ってしまって、その子たちを連れ戻すために先生が教室を出て行く。先生が不在になった教室はもはや大騒ぎのやりたい放題状態で、まさに学級崩壊だった。


先生が怒る声も誰一人としてまともに聞き入れず、朝の登校時から下校時のHRまで同じ騒がしさ、授業中であってもザワザワ。ときには誰かがふざけて授業中に突然「ぎゃああああー!!!」と奇声のような雄叫びを上げて、それに対してクラス中が「ギャハハハ!」 と笑う。そこから収拾がつかないままに授業時間が終わる。


授業もままならず、毎日がそんな状態で私は頭がおかしくなりそうだった。
朝から下校まで自分の席でジッと心を無にして、ひたすらそんな環境に耐えていた。なにせ、私はそんな環境が一番苦手だったのだ。



一日中、騒がしい音に包まれて、収集のつかない子どもたちの行動を見る。
人との距離も異常に近くて自分が落ち着ける時間は一瞬たりともない。
周りを走り回り騒ぎまくる無秩序な環境で一日を過ごさなければならない。


くる日くる日も強制的にこの環境に通わなければならず、その強制的な朝は永遠のように続く。


学校が休みの日も、学校以外の場所にいても「明日またあの学校に行かなければならない」という事実から逃れることはできず、その事実に疲弊してしまう。
当時の私は毎日がそんな感じだった。




心と密接に関係する体

 学校に対して心を完全に閉ざしていた私は、学校でお茶を飲むことすらせずトイレにすら一度も行かずに帰宅する日が続いた。そして心と体は密接に関係しているからか、気がつけば学校で給食を食べられなくなっていた。


みんなが学校に行ってそこで普通にできていることが、私にはそれら全てができなくなった。


いま振り返ってみると、人よりも音や匂いといった外部からの刺激に敏感だったのも関係しているのかなと思う。


みんなは何も気にせず居られる環境が私にとってはひたすらに苦痛で、そんなふうに私が苦痛に感じる環境の要素を全て集結させて、それを具現化したのが学校だった、という感じだ。


勉強は好きだったのだけれど、学校での授業のやり方も私にはとことん合わなかった。



連帯責任とプレッシャーを強いる環境での勉強


 
担任の先生が算数の時間にやる「九九リレーゲーム」というのがとにかく嫌だった。ゲームの内容は、出席番号1番の子から順に九九をリズムに合わせて一人ずつ答えを言っていくというゲームで、これが本当に地獄だったのだ。


簡単すぎる一の段は飛ばして二の段から言っていくのだけれど、途中で誰か一人が間違えるとまた最初からやり直しになる。つまりは連帯責任になるため、間違えた子には当然非難の声が集中する。



 5×2=10、5×3=15……。
自分の番が回ってくるまでずっと緊張して身体中に力が入り、自分は何番が当たるだろうかなんて先回りして考えようとするものの、焦りで上手く考えられず、いざ自分の番になるとその焦りがピークを迎えて頭が真っ白に。私の答えを待って教室の空気が止まってシーンとなる。「7×6=……」リズムに乗って答えを言えなかった。

すると先生がすかさず「あぁ~、じゃあ青井ちゃんからやり直しね!」と言う。
一斉にクラス中から私に対して非難の声が湧き上がる「はぁ!?お前ふざけんなよ!なに間違えてんだよ!しね!」隣の子から身体を揺すられて、イスから半分ズレ落ちて視界が大きく揺れる。遠くの席の女の子が私のことを無言で睨む。
「はい、みんな静かに!!青井ちゃん、2×1の答えは?」と先生の声からまた始まる地獄のゲーム。


2巡目になるともう間違えられないと、さっきより格段に上がってしまったプレッシャーを感じながら、さっき間違えて半泣きになって萎縮した表情のまま、また自分の番が来るまで身体を硬直させて待つ。そしてよりによってまた間違えてしまう。私はついに泣き出してしまう。こんな毎日。



先生はこんな授業のやり方が苦痛だと感じる生徒がいるだなんて想像もつかないのだろうか、先生は学生時代に私が感じているような苦痛を一度も味わうことがなかったのだろうか、こんなゲームを行う先生には何も分かってもらえないだろうな、なんてことも心の隅で思っていた。

後日談だけれど、学校に行かなくなってから先生に「あのゲームが嫌だった」と伝えた。その後、授業方法が変わったのかは知らない。




泣きながら飛んだ大縄跳び

 他の授業でもそういった連帯責任を負わせる勉強方法は同じで、体育ではいつも大縄跳びが嫌だった。
私は運動神経は良かったものの、大縄跳びだけはいつまで経っても上手にできなかった。

体育の大縄跳びでもさっきの「九九ゲーム」とルールは同じで目標人数に達するまで一人ずつ縄に入っていく。誰かが縄に引っ掛かったらまた最初の人からやり直し。やり直しするたびに体力は無くなっていくので、みんなからの非難の声は強くなる。

すでに2人ぐらいが縄に入って飛んでいる状態で私の順番がくる、でもタイミングが掴めない。そうこうしてタイミングを見計らっていると後ろのクラスメイトから「早く入れよ!」と言われる。焦って飛び込むと縄に引っかかってしまい、また最初から。一斉にクラスメイトから責められる。そりゃそうだとも思いながらまた列に並ばされる。自分の番になって先生が側でアシストしてくれる。「いま!」と背中を押されて縄に飛び込むと顔面に縄を喰らう。またみんなから責められる。縄が顔にビタンと当たってとても痛い、みんなからの視線も痛い。


「もう私にはできないので見学させてください」と涙か鼻水か、もしくは鼻血かも分からないぐしゃぐしゃの状態で先生に頼む。「次はいけるから!頑張れ!」と見学にも回らせてもらえず、みんなの視線を全集中に受けながら、今度は最初の一人として飛び込まずにスタートする。



泣きながら、目標人数に達するまでひたすら飛んだ。鼻が詰まってしゃくり上げながら飛んだ大縄跳びは、肺が痛かった。でもなにより心が痛かった。
どうしてここまで恥ずかしい思いをして、連帯責任で大縄跳びを飛ばなければならないのだろう、私にはその理由が理解できなかった。
その頃にはもう学校にまつわる全てが嫌になっていた。




登校時間に家のトイレに閉じこもる

 そんな日を繰り返すなか、ついに私は朝の登校時間を過ぎても家のトイレに鍵をかけて閉じこもるようになった。

玄関で靴を履かされながらも私は泣き叫び、必死に玄関のポールや扉にしがみついて「学校に行きたくない!!」と大声で叫び暴れるようになってからは、「お昼まででも良いから」なんて母の言葉はなくなり、ため息混じりに担任の先生に「今日も学校に行きたくないと泣いているので、今日もお休みします」と電話をしていた。

外向きの明るい声で電話をしながらも、表情は悲しそうで失望したような、朝から疲れ切ってしまった顔をした母を覚えている。本当に申し訳なかった。


でもどうしてもやっぱり私は学校に行けなかった。そんなふうにどうしても学校に行きたくない日が増えていって、そんな日はどうしても学校に行くことができなかった。



 行きたくない理由はいまだにハッキリと自分でも分からないままだ。行きたくない理由はわからないけれど、行きたくない、嫌だ、という気持ちだけはハッキリと分かる感覚。その気持ちに自分でも争うことができず、両親のためにも、担任の先生のためにも、自分のためにも行かなければと思うのだけれど、誰のためであってもどうしても学校に行けなかった。


行ったり行かなかったり、早退したりを繰り返す私に「先生に迷惑がかかるでしょ!!ちゃんと学校に行きなさい!!!」と叱りつける母は正しかった。


私は先生に迷惑がかかることも、両親に莫大な心配をかけてしまうこともちゃんと分かっていたのだろうか、いや、おそらく自分のことに精一杯でそんな気持ちを考える余裕もないぐらい、私自身も自分でどうにかしなきゃいけないとは思っていた。でもどうにもできなかった。どうしても学校に行きたくなかった。


その頃から私は完全に不登校になってしまった。





不登校になって変化したこと

 不登校になって変化したこと。それは周りからの目と声だった。

仲が良くて毎日のように遊んでいた近所の友だちを遊びに誘っても必ず断られるようになり、ついにはインターホンにすら出てくれなくなった。相手の親御さんの気持ちを考えると「うちの子まで不登校になったら困る」「不登校の子と遊ばせるだなんて」といった気持ちがあったのは当然だろうなと思う。



また、三者面談で久しぶりに教室に行ったときは廊下を歩いていると下校途中のクラスの子たちから後ろ指を指され、ヒソヒソと「不登校の○○だ」と聞こえるように言われ、周りの親からもそんな目線を受けた。



いま思うこと

 いまは新型コロナの影響でオンライン授業への切り替えや、登校とオンラインのハイブリッドスタイル、そして学校によっては登校したい子は教室に行って勉強をして、そうじゃない子は完全オンラインで授業を受けても良いと選択ができる学校もあると聞きました。



もはやそうなると近い将来、「不登校」という概念自体がこの世からなくなる日も近いのでは、なんて考えられる余白があることが嬉しいです。

なぜかというと、「不登校」というレッテルは非常に厄介で、その言葉から連想するものは非常に暗くて社会に適応できない子どものようなイメージを纏い、偏見に満ちていることが多いからです。


少し時代が進んだ現状はどうなのか分かりませんが、当時の私は「不登校で、」と言うと必ず「引きこもり?」と聞かれることが圧倒的に多かったです。学校に行っている子の性格がそれぞれ違うように、不登校の子だってみんな性格が違います。


会社に出社して仕事をするよりも在宅ワークの方が好きだ
、という大人がいるように、それぞれに適した環境で勉強ができるようなそんな未来がくると良いなと思います。


こんなことを言うと、「学校は勉強だけをする場所じゃない」と、友だちとのコミュニケーションの取り方や集団生活といった社会に出てから必要なスキルを鍛えるところでもあるから、それは学校に実際に通わなければ学べないものだ、と主張する人がいます。

でも、本当にそうでしょうか? 私は疑問に思います。
学校に行っていてもコミュニケーションの取り方が間違っていて、平気で他人を傷つける人はたくさんいるし、集団生活の方法を学んでいるはずなのに、社会でわざと輪を乱す人はごまんといます。


さらに学校に行っていないからといって、そういったことを学ぶ機会が完全に無くなってしまうということではなく、日頃なにかしら私たちは社会と接していて、常に何かを学んでいると思います。



「不登校児」と一括りにしてもみんな異なった人間なので、もちろん一概には言えません。ただ、実際に不登校だった人たちを見ていても、不登校になる過程で傷ついたり悩んだりした分、それについてきちんと考えて内省したり自分はなぜ学校に行きたくないのかを内観したり、そんなふうに自分の内面と向き合う機会が多かった人は繊細で優しく、そして本当の強さを持ち合わせていることが多いような気がしています。


「不登校はダメなこと」というあまりに乏しい批判の声が上がるのではなく、学校に通う以外の選択肢がもっと多く増えるといいなと思います。



私が義務教育に戻ることはもうないので、今後の義務教育の方法がどうであれ、どう変化したところで私が不登校だった事実は変わりません。でも、大人になった私だからこそできることは何かないか、と思いながらこの文章を書いています。



将来を担う大切な光を纏う子たちが、どうかこの堅苦しく融通の効かない教育方法によって、その根が絶やされることのない未来が来ることを願って止みません。




「あの子は不登校」と言わんばかりのその視線が本人を貫き、「不登校なのは親の教育が悪い」というような声が、すでに心の痛みを抱えている子どもやその親御さんをも追い討ちをかけるような現状が垣間見られます。


最初の投稿にも書きましたが、不登校の本人含めその家族は、世界中の誰よりも自分のこと、自分の子をどうにかしようとしています。他人が断片的に考えるよりもはるかに多くの時間、長く深く奮闘しています。あえてわざわざ険しいイバラの道を選ぶ人なんかいません。


そんなことを多くの人が知ったり想像したりして、少しずつ良い方向へと物事が進んでいくといいなと思いながらこの文章を更新していきます。


次回は #5 宙に浮いて登校した日【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。

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