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#3 小学2年生、学童での出来事【7年間の不登校から大学院へ】


 今回の記事では、「学校に行きたくない」という日が増えていった小学2年生の日々と、学校に行きたくないという気持ちに影響したかもしれない学童保育でのある出来事を書いていきます。


・幼少期から小学1年生までの前回の記事はこちらから




小学2年生

 小学2年生になると担任の先生が変わった。

1年生のときのベテラン感あるどっしりとした先生とは対照的に、若くて元気ハツラツ系の先生になった。実は、5年生になったときにもこの先生に担任を持ってもらうことになる。

この先生は学内一番と言っていいほど人気のある先生で、みんなと一緒に校庭で遊んでくれたり、いろんなイラストをノートやプリントに書いてくれたり連絡帳には可愛いシールを貼ってくれたりと、生徒からの人気はバツグンだった。

いまでも手元に残るクラス通信のようなプリントには、当時のそんな楽しい典型的な明るい仲良しクラスの雰囲気が伺える。

クラス替えがあったものの、個人的にクラスには仲の良い子が多く先生のことも大好きだった。でも少しずつ学校に行きたくなくなる日が増えていった。


この辺りの自分の心境(当時7才)を鮮明に思い出せなかったので、当時の状況を親に聞いてみた。



学童保育に通う日々

 両親が共働きだった関係から、私は小学2年生の終わりまで学童保育に通っていた。
低学年は授業が少なく早い時間での下校になるため、授業が終わると学童保育まで行って夕方の遅くまでそこに来ている子(小学1~6年生まで)たちと時間を過ごしていた。

なんとなく記憶の片隅で、学童のみんなで円になってお菓子を食べたり部屋や外で遊んだりして、お迎えの時間になると外はもう薄暗かったのを覚えている。

そんな学童保育でのとある出来事があった後から、少しずつ「学校に行きたくない」と言ってごねる日が増えたように思うと母は話してくれた。


そのとある出来事については、話される今のいままで私はすっかり忘れていたけれど、たしかに覚えていた。



学童保育でのケガ事件

 とある日のこと。学童の時間、仲が良かった男の子といつものように外にあるブランコで遊んでいた。その子はブランコに腹這いになった状態で前後にゆらゆらと漕いで、一人で「スーパーマンごっこ」と名付けた遊びをしていた。

私はすでにブランコから降りて、その様子を少し離れた斜め後ろから見ていた。

すると次の瞬間、その子がブランコを漕ぐために地面を蹴った反動で顔面から地面に落ちた。
鼻血が出て、顔には擦り傷ができて砂まみれで泣いていた。私はその子に駆け寄って、周りにいた他の子は急いで先生を呼びに行って、学童の先生が深刻な顔で駆けてきた瞬間を覚えている。その後、その子は保健室に連れて行かれて、翌日に教室で見かけたときには顔に大きなガーゼを当てて登校してきていた。



 その翌々日あたり、学童の先生から私の家に一本の電話がかかってきた。

電話の内容は、先日ケガをした○○くん(仮にBくん)の親御さんが、ブランコから落ちて怪我をしたのはお宅の子(つまり私)が後ろから押したからだ、と言っているので一度本人に聞いてもらえますか? というものだった。

詳細を聞くと、怪我をしたBくんのお姉ちゃんが現場を見ていてそう証言をしている、とのことだった。もちろん私は押していない。斜め後ろに立っていただけで、体にもブランコにすら触れていなかった。それは今でも断言できるぐらいハッキリ覚えている。

学童の先生と電話を繋いだ状態で母にそう聞かれ、「押してない」とキッパリ答えると、母も「本人は押していないと言っていますので、あちらの親御さんにそう伝えてもらえますか」と冷静に、でも強く言ってくれていたのを覚えている。

ブランコからBくんが落ちたとき、ちょうど私が斜め後ろに立っていたため、もしかしたらそう見えてしまったのかも知れない。でも私は押していない。




その後の学童で

 その後、学童で「私は押していません」と自分の口で先生に言ったのだけれど、なんとなく先生からも相手の親御さんからも疑いの目を向けられているような雰囲気があった。Bくんの親が「顔にケガをしたんですよ!?」と血相を変えて、私の方を見ながら学童の先生に詰め寄っていたのもなんとなく覚えていて、押してないのにな、と心のなかで思い続けていた。

その後ほどなくして私は学童を辞めた。

そんななかでも両親は私の言うことを一番に信じてくれて、何があっても揺るがず私の味方をしてくれた両親に安心感を覚えた。

この出来事が不登校のキッカケではないけれど、もしかしたら当時の私にはなんらかの影響があったのかも知れない。



小学2年生の3学期から少しずつ不登校に


 
学童を辞めてからも学校には変わらず通っていた。
でも2年生の3学期あたりから学校に行きたくない日が少しずつ増えて、給食前に早退する日が増えていた。

朝になってから「今日は学校に行きたくない」と母に伝えて学校に電話してもらい、「今日はお休みさせていただきます」と担任の先生に言ってもらう日があった。最初の頃は両親も、たまに休んだとしても登校する日のほうが多かったらそれで良い、といったスタンスで許してくれていた。


でも徐々に学校に行きたくない日のほうが増えてくると、母は「お昼で帰ってきても良いから、とりあえず行きなさい」と私を学校に行くサイクルから外れないようにとだましだまし登校させてくれていた。

担任の先生も私のことを気にかけて、よく声もかけてくれた。私が給食を食べずにお昼で早退する日には必ず「ちょっとでも良いから給食を食べて帰らない?」なんて声をかけてくれた。

そんな優しさと心遣いを受けながらも、どうしても学校に行けない日があった。
そんな日はどうしても学校に行くことができなかった。

それでも誤魔化しながら、行ったり行かなかったりを繰り返した2年生の3学期も終わって、私は小学3年生になった。

この3年生でのクラス替えが不登校への決定打となることも、そこから7年の不登校生活が始まるなんてことも、この時点では誰も知る由がなかった。



次回は #4 完全に不登校になった小学校3年生【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。

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