見出し画像

本質的なマーケティングとは何か?マーケティングとは資本主義社会による、サービスやモノの拡充を目指したもの。人類史は近年50年近くを除き、飢餓と貧困の最中にあり、これらを払拭するために、マーケティングは必要とされたが、近年それらが払拭されつつある今、マーケティングは役目を終えるべき。

これは、成長病ともいえる人類の病巣ともいえる。近年のGDPを見ても、人類全体の成長度合いは停滞ないし、下落の一途をたどる。ITという基幹産業が生まれ、社会的イノベーションが行われても、単に基幹産業の変遷が行われただけにすぎず、新しい成長産業が創出されたわけではない。

生産性の悪夢。企業は生産性を重視し、むろん、効率的である作業は推進されるべきだが、資本主義が社会の飢餓と貧困を解消せしめるためにうまれたのならば、全体として安定という空域に入ろうという今、資本主義そのものが役目を終えつつあるという証左にもなる。

それはつまり、何をもたらすかというと、「生産性」の向上は望めないから「成長」はないし、成長がないから「資本主義」は最早体を成さず、「マーケティング」が概念事喪失するという結果になる。だが、これは忌むべき事ではなく、望まれた結果ー人類の大いなる正午ではないか?という事だ。

飢餓と貧困が解消された社会になったので、必要だったものが不必要とされるのは、憂うべき事ではなく、願ったエデンではないのか?つまり、経済的側面の成長を求める必要がなくなったので、経済的成長が無い状態の中で豊かに生きる方法を選べる時代になったと言い換える事が出来る。

資本主義は様々な環境破壊と引き換えに利便性をもたらした。それ自体は最早過去にすることはできないし、そこから学び取ったのは、利便性と環境破壊はセットになるという事。破壊された社会で生きる事は原罪を抱える事になり、それは生きにくさを求める社会となった…ではどうするか?

生きるに値する世界へと進む事。つまるところ、資本主義という経済的合理性を求めた結果、大衆(マス)が求める部分には様々なモノを投資するが、そうじゃないところはマーケティング的に価値がないと見いだされ、経済的合理性の外が置いて行かれることになった。これは日本を見ればよく分かる。

選挙権を持つ人数が多いから、多い人向けの施策が票を集める…若者の意見は誰が反映してくれるのだろうか?子供の人数が少ないから子供向け施策は後回しにされ、難病問題は人数が少ないから後回しにされ、必要とされる部分にサポートが行き届かない。これが、マーケティングが死ぬべき理由だ。

マーケティングを突き詰めれば、生産性、成長性、経済的合理性という部分だけをピックアップし、社会的課題を解消しない。それはイノベーションとて同じ。大衆に向けた解消を求めるからだ。それでは、意味がない。一見無意味と思えるものに力学を利かせるには何が必要か?衝動ないし情熱だ。

個人の趣味なんて一切、生産的でもなく建設的でもない。お金が欲しいなんて言いながら生活費以外にそこに投資するのは、人間の衝動と情熱であり、そういった金銭から離れた感情が、様々な社会的課題を解消してきている。つまりマーケティングは、心の価値を提供するものに立ち返る必要がある。

マーケティングの真髄とは。心の価値を豊かにするためのモノ。その対価として、誰かを笑顔にする自分の夢を叶え、金銭を授与する事につながっていく。誰かを養分とするマーケティングには辟易した。だからこそ、ブランディングが大切。誰かを笑顔にするか。パーパス無きマーケティングを滅ぼそう。

世界を盤上事ひっくり返して、子供達に笑顔を!