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聞く力というけれど

計算論の連載の方は、年末年始に思ったほどまとまった時間がとれなかったので、月末ぐらいまで次回掲載は延期。今日は本当に雑談みたいなはなし。

年末に本を整理していたら、「聞く力」というのが出てきて、その本の内容は別にいいのだけれども、そういえば「聞く力」って何よ、と思った。

よその施設にお手伝いに行ってカルテを見ると、夜間帯に突然来院した患者の対応などで、「傾聴してお帰りいただいた」などと書いてあったりする。この記載の陰にはとても豊かなやりとりがあったのかもしれないし、そうではなく「適当にあしらって返しました」ということの婉曲表現なのかもしれないし、あるいは適切な枠組みで話を聞くコトそのものに何か魔法のような癒やしの効果があるという信念を表現しているのかも知れない。しかし、おそらくはそのどれでもなくて、「そういうときには傾聴しなさい」と教えられて、型どおりの作法でちゃんと対応したと記載してるんじゃないかと思う。まあそれはそうなんだろうけど、枯れきった超ベテランの老医ならともかく、わかいうちからそんなに枯淡の境地でだいじょうぶなのかとも思ってしまう。

精神療法・心理療法では、ひとの話を聞くことが大切だとどんな教科書にも書いてある。患者さんの方でもそういうものだと思ってる場合もあって、今日はひとつ話を聞いてもらおうと思って来ましたなどと言うこともないではない。精神科治療は基本的には病気を治療する枠組みなので、診察では確かにお話を聞きますがそれは診断をつけて治療方針を立てるためなのですと説明すると、へえそういうものですかということになる。そうはいっても、外来面接というのは会話には違いないから、そういう患者さんがイメージしていることも間違っているとは言えない。

多少雑な話になるが、「聞く」ということには、少なくとも4つの要素があると思う。
1)相手にうまく喋ってもらう
2)相手の喋ったことからさしあたって必要な情報を得る
3)そのことを通じて直接語られていないことを含めて相手の生活背景や人柄が把握される
4)相手の話を聞いて理解するという相互作用によって筋書き(ストーリー)が生成する

「相手にうまく喋ってもらう」というのは、インタビューをする場合にはいつも大切なことで、だいたい「話の聞き方」みたいな本には、そういう技術が書いてある。たまにそういうのが上手な精神科医がいるが、たいていはそういうのが苦手なひとの方が多くて、精神科医はいくらがんばっても占い師やバーテンダーのようなプロには勝てない。

つぎの「相手の喋ったことからさしあたって必要な情報を得る」というテクニックの方は、これは精神科の必須技術なのだが、これだけやると秘密警察の尋問のようになってしまう。相手にうまく喋ってもらうというベースがあって、その上で必要な情報を得ることが出来ればもちろんそれがいいに決まっている。とはいえ、診察室で白衣を着た人に質問されれば、患者さんは診察されるのだという構えでいるから、多少は根掘り葉掘り訊いても大目に見てくれることが多いのも事実である。短い時間で能率よく診断しなければならない状況ではやむを得ない。

以上ふたつのことをしているあいだに、精神科医は患者さんの人間像を把握しようとしている。このひとは日頃どういう生活をしているのか、どんな人柄で何に関心を持ってどう生きているのか。そういうことを意識的・無意識的に把握しているのだ。このことがかなり大切で、さしあたって必要な情報とは別に、主に非言語的なイメージとして診察者のなかにそれが表象されていくのである。テレンバッハが「味と雰囲気」で、雰囲気といっているような把握の仕方もそれである。本質的には言語化できないものだから、無理に言語化するとイメージが歪んだり壊れたりする。そのままに受け取っておくしかない部分もある。カルテに書くときには仕方ないから、雰囲気を壊さない範囲であっさりと記述しておく。

さらに、時間的には以上のプロセスと同じ時間経過の中で、会話する二人のあいだにストーリーが生成していく。私見ではあるが、このときに精神療法・心理療法の本質的な部分が働いている。「聞くこと」そのものになにか魔術的な癒しの効果があるというのは迷信の匂いがするが、「語ること」そのものは患者の能動性の発現であり、この能動性を通じて患者が自分自身を変化させ成長していくということは充分にあり得ることだ。

このときに、どのようなストーリーが生成していくかは、制御できない側面と、制御できる側面が混在している。会話というタイプの相互作用の形式を取っているのだから当然のことである。外来面接で患者は、語ることをソフトな形で強制されている、もちろん語らないことだってできるが、語らなければ治療が進展しないことはお互いにとってあまりに明白だから、治療を継続しようとするなら結局は語るしかない。外来面接のプロセスは面接者と患者の双方にとって、お互いによって制約されている。面接者は患者の期待を全く無視することは出来ないし、患者も面接者の期待に常にさらされている。もちろん、面接者の期待に抵抗することも出来るが、そのこと自体が面接者によって与えられている制約に服することに他ならない。

このようなセッティングのなかで、面接者はより治療的なストーリーが生成するように、さまざまな企みをする。ただ、そのことにさまざまな流儀があるだけである。あるときは、面接者はあたかも何も期待していないかのように振る舞う。またあるときは、患者の語りに対して解釈を返す。そうでないときには、具体的断定的に行動を指示する流儀もあるし、ごくわずかな気配だけを提示するやり方もある。

自明なことではあるが、だれであれ聞くひとに対して語るときには、ひとはその誰かの期待や予期、あるいは理解の可能性と無関係に語ることはできない。そのことによって、聞くひとは、明示的にある問いを投げかける場合にも、「あなたは何でも思ったことをはなしていいのです」と述べる場合にも、いずれにせよ会話の場を作り出してそれを部分的に制御している。これは社会学においてダブルコンティンジェンシーとしてよく知られている状況に他ならない。その場に居合わせたひとびとは、互いに不確実性に曝されつつ、ある一連の行動を取ることを余儀なくされる。それゆえに、ひとは処理しきれない莫大な情報量を秩序づけることを求められ、どうにかして状況の複雑性を縮減せざるを得ない。そこで会話の参加者達は、その所属する社会の典型的なストーリーのさまざまな記憶を資源として利用することで、会話の展開の無数の可能性を切り縮めて、最終的にはあるひとつの物語として自分の経験を語ることになる。治療者はこの流れに、渡し船の船頭のように棹さして、患者をある岸から別の岸に渡すことができる。

精神療法・心理療法において、聞くということはあらましそういうことであり、随って聞くということはどんな場合にもニュートラルな行為では全くありえない。もちろん患者の話は聞いてもいいのだが、治療方針もなく聞くということは、治療方針もなく手術をするぐらい無謀なことだと、さしあたって自分自身への戒めとして言っておこうと思う。

テレンバッハ 「味と雰囲気」 みすず書房 1980

ルーマン 「社会システム理論」 恒星社厚生閣 1993



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