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『無門関』第十九則平常是道

本則口語訳

趙州が南泉禅師に「道とは何か」と問うた、

すると南泉禅師は「平常の心が道だ」と言った。

「それでは何に気を付けて生活したら良いのでしょうか」と趙州が質問した。

南泉は「道を究めようと努力しては逃げてしまう」と言う。

さらに趙州が質問して言うには「疑問を追求しなければ目標とする道が解りません」

南泉言わく。

道は知では理解できない不知にも属せず、知は是れ妄想、不知は是れ空虚。

もし真に不疑の道を体得すれば、妄想が廓然として永遠なるが如し。

そうなれば不擬の道に達し。即座に頓悟す。

解説

趙州禅師が雲水であった時、師匠の南泉禅師に師事していて、心眼を開いた故事である。

趙州禅師といえば『無門関』では度々登場する有名な老師では
あるが、修行時代「道とは何か」と問うたのであった。

すると南泉禅師は趙州の期待に反し禅の神髄とは「平常の心が道だ」と言ったのである。

しかしそれでは意味が解らないのであった。

それもそのはず、あるがままに見てあるがままに生きると言われても納得出来なかったのであった。

南泉禅師は、あるがままに生活していても、その生活からあるがままの特徴を知ることが出来ないのである。

確かにきびきびと生活しているかと思うと、ゆったりとしていて寛容である。

厳しいと思うとやさしくていねいに教えてくれる。

何事にも注意を怠らないと思うと、何処か気の抜けたこと言う。

積極的とも言えずさればと言って消極的でもない。

開放的では無いが何も隠すことはしない。

堂々と自らの恥をさらけ出しても一向に気にしない。

話しにくいと思うと気やすく相談にのってくれる。

何故それが、あるがままの生活なのだろうかとおもう。

ただよく見ていると心配したり、くよくよとして悩んでいることがない。

何事にも即断即決で判断をして、怒ってもすぐに忘れている。

機に応じ境に即して生活しているのだろう。

よく誤解されるのが真実と虚構の区別に関する疑問を見かけるので明らかにしておこうと思う。

南泉禅師は「平常の心が道だ」と言った意味は日常生活においては道を外れることは少ないのである。

だから行住坐臥こそ禅的生活であると言うのである。

真理とは自己を離れて遠くにあるものでは無く花を見る行為そのままが禅の境地だというのである。

虚構とは日常生活を離れて知的活動において空想に走ることを妄想とか虚構というのである。

一番注意して読んでほしいところは「知は妄想」だと言っているところであるけれども、

「妄想が廓然として永遠なるが如し。」と言うことは「妄想が真実」だと言っているのである。

この前の「知は是れ妄想」だけを覚えていて「妄想が廓然として永遠なるが如し。」を記憶していないことを妄想と言うのである。

繰り返すが日常生活における知的活動は実存そのものだと言っているのである。

ただし人間関係になると不確実な要因が存在するので、想像が加わることになる。

想像が想像を呼び何時しか虚構に成長してしまうことを妄想と言う。

本から知る知識は他者の知識でありそこには誤解が生じる。

その誤解の上に積み立てられた知識は砂上の楼閣のようにもろい。

日常生活においては誤りは修正されて行くので真実である。

これは例え話しでは無く、みなさんの行住坐臥そのものこそ禅的生活であると言うのである。

それが修行即真実であることを信じてほしい。


参照文献

『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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