『不動智神妙録』秘伝の神髄:10
「本心妄心。(妄心)といふ心は悪しき也。
本心は一所に留て、又全く身体に舒つまる物也。
妄心といふは何ぞ心に思ひそめて一所にかたまりたる心ぞ。
本心が一所に聚りてこりかたまりて妄心と成て有也。
如レ此なれば本心はうせ候故に所々の用が欠るなり。」
ここでは本心と妄心の違いを述べていて、妄心とは煩悩や迷いの心のことである。
それに引き換え本心とは心身一如、対立したり矛盾する考えが無く統一していることをいう。
生死を忘れて不退転の意気で戦うことを本心という。
ところが本心といえども注意が一か所に滞るとそれは一転して妄心に変わる。
そうなれば本心が消え失せ妄心と化して役に立たない。
「氷と水とは一つなれども、氷にては手顔もあらわれぬ也。
氷をとかして水となしては、いづくへなりともながし度所へやりて自由也。
人の心も一所にかたまり候へば不自由也。
水のごとく心を総身へ舒廣りて用なる所へやりてつかひ候。
是を本心といふ也。」
本心妄心を氷と水にたとえて同じ水でも凝ってしまえば手も顔も洗えぬという。
心も同じことで緊張していては自由な動きが出来ぬぞという。
それには『不動智神妙録』の最初の方で「心を留めてはならぬ」といった言葉を思い出せ。
血液が全身にまわらねば体も心も働かぬぞ、心とて同じことじゃという。
本心とは留まらぬ心といい放心して自由にしてやれ。
「有心の心、無心の心といふ有り。有心の心といふは妄心と同事也。
有心と云は何事にでも一方へ思ひつむる所あり。是を有心と云うなり。
又無心の心と云うは本心の事也。一所にかたまり定る事なく、
分別も思案も何もなき時は、心は総身に舒廣りて、全体に行渉りたる心を無心の心といふ也。
無心といふて石か木かのごとくなをいふにてなし。
心に留る事のなきを無心無念と云也」
ここでは「有心の心」と「無心の心」の違いを説明している。
「有心の心」とは「妄心」同じであるが「無心の心」と比較することによって明らかにする。
有心とは攻撃すること或いは防御のどちらか一方だけに心が向いていることをいう。
「無心の心」とは「本心」であり、勝とうとか負けそうだとか有利だとか技は何を使おうとか何も考えぬことである。
考えていては間に合わぬぞ、注意の焦点を絞ると見えぬ所があるぞ、全て軽く受け流すことだ。
そうすれば視野が広くなり気づかなかったところが見えるぞ。
特に難しい言葉ありませんが大変重要なことに気が付きませんでした。
何故気が付かなかったのか、それは沢庵禅師に拘るな心を留めるなと言われながら拘っていたのです。
沢庵禅師が言わなかったのではないが勝手に拘っていたことが考えるなと言ったことに拘っていたのだった。
そのため沢庵禅師の言葉を聞きながらが聞こえなかったのだった。
見ながら見ていなかったのだった。
あれほど言葉に拘るなといわれながら拘って見るべきものを見ていなかったのだ。
言葉で理解していても身体で理解していなかったのだ。
つぎの文にその聞きながら聞かなかったことが再度書かれている。
「常に水のたたへたる様にかなふして、此身に有て、用の向ふ時は出て用を叶る也。
たとへば車の軸のかたまらぬによりてめぐるなり。
心も内に何事ぞ思ふ事あれば、人の云事も聞きながら間不レ覚。
思ふ事に留まる故なり。是心は物の有故なり。
又此の心に有物をさらんさらんと思はざれ。
思はねばひとりでに去ておのづから無心に成也。
常に心掛る程、後は無心の位へ行也。
古歌、思はじとおもふも物を思ふ也思はじとだに思わじゃ君」
心身は外界の刺激に無意識で適切に対応する機構を備えているから信用していろという。
それを「此身に有て、用の向ふ時は出て用を叶る也。」という。
その自由自在の心身の能力を生かさないのは余計な事をかんがえるからだ。
考えていては周囲のことは見えぬぞ、ひとの話も聞きながら聞こえぬぞ。
物を見るから心が留まるぞ物を何かと考えるな思わねば自然に無心に成るのだ。
大覚禅師の体験でいえば一度も兵士の顔を見ていないのだ人と思わねば人情は起こらぬ。
これぞ無心だ、思わじと思うも思っているのだ、思わじと思わぬが思わじや。
『不動智神妙録』秘伝の神髄:9へ続く
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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