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純粋経験とは心理現象の原因である

なぜ純粋経験という人間の目に見えない判断できない不可視の存在を想定しなければならないのか。

存在しなければならない理由は人間心理と社会構造を解明する重要な概念である。

西田幾多郎が『善の研究』でその特徴を列挙しているのでその特徴との関連から明らかにしてみたい。

第一に感覚や知覚、感情が純粋経験の対象である。

第二に純粋経験が存在していてもその意識に何の意味も無い。

第三にその対象は瞬間的な感覚や知覚、感情では有っても意識の縁暈を含む存在である。

第四に純粋経験は全ての精神現象の原因である。

第五に純粋経験は混沌の中に統一を含んでいて分化発展の体系をそなえている。

第六に意志は未来に期待する欲求ではあるが現在の意識である。

第七に記憶は過去の意識では有っても思い出した時点では現在意識であり純粋経験である。

それでは以上の条件を満たす具体的な例を考えてみましよう。

目の前の空間は当然今ここである。

過去、未来、現在が同時には交差することは出来ない。

ところが混沌の内に過去、未来、現在が存在して統一した状態を純粋経験という。

これは現在では仮説であって証明されたものではないが説明概念である。

例えば夜仕事を終え帰宅すると部屋は暗いので蛍光灯をつけようとスイッチ押す状況を想像する。

暗くてスイッチの位置は見えなとする。

そこで過去のスイッチのある位置の表像と、スイッチを押そうとする未来と現在が統一され行動の原因になる。

決して交わる事の無い過去と未来、現在が瞬時に統一されスイッチを知覚して押すとする一連の行動が完了する。

純粋経験といわれる混沌状態が存在しなければ統一もあり得ないことになる。

過去の表像と現在の空間に隙間がないことを主客未分といい意識することはない。

ただ過去の表像といっても過去の表像そのままであることは無く現在の事像と統一せられたものである。

ところがスイッチはすぐに見つかるとは限らない。

過去の表像と現在の空間がぴったりと一致すことは稀で、そこでスイッチを探すという意識的な選択行為になる。

そこで主観と客観が別れる、この差異を埋めるために空間とスイッチの識別が必用になる。

ここに至って思惟による統覚がおこなわれる。

スイッチの確認や自己の位置とスイッチの距離の推定が必要になる。

ただ思惟による統覚は結合するのではなく、分析して再結合することである。

画家などの創造が純粋経験といわれるのは自己の意志と過去の表像、記憶に不一致が無いから意識することは無い。

noteの会員が時間を忘れて無意識で記事を作っている時は心像という純粋経験を元に思惟が行われているのである。

それを西田幾多郎は「思惟の運行も或具象的心像を藉(か)りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。

といい、「純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活溌なる状態である。」という。

それでも芸術家といえども考えることもある、純粋経験から逸脱することもあり選択的意志よる行為がおこなわれる。

ところが「選択的意志とは已に意志が自由を失った状態である故にこれが訓練せられた時にはまた衝動的となるのである。

ここで衝動的とは純粋経験に戻るという意味である。


さて時間がすぎて明かりが灯ったとする、

その空間には床、天井、窓、壁、キッチンテーブル、その他数えきれない程の物がある。

そこでまず最初に目に止まるのは何か、偶然の選択ではないだろう。

過去、未来、現在の統一作用である純粋経験が決定を下すと考えられる。

西田幾多郎が条件に挙げた純粋経験が行動の原因である。

さらに行為だけでなく「我々の注意を指導する者はこの作用であ」るという。

だから何気なく見る対象は見る前に意識下の純粋経験が決定しているのである。

環境の刺激が注意を喚起すると考えられるのであるが刺激も含めた純粋経験に主導権があると考えるのである。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


引用参照は青空文庫です


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