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『門』論1:仏教の因縁

『門』は仏教史上れいを見ない部数を誇る「仏教の因縁」に関する書籍なのです。

noteの会員mathematicsbuddhismさんの『究極にやさしい仏教の「因縁」の解説』によれば、 https://note.com/mathbuddhism/n/n1a4e23d0c7df

「仏教の因縁という言葉は全ての事物は「よって成り立つ」という意味に使われます。」

というように単純な直接的な因果律とも違うようです。

今回もmathematicsbuddhismさんの記事に触発されて書いています。


夏目漱石自身は『門』を高く評価していて、至極満足していたと言われています。

それに反して評論家の中には、平凡で単調な日常生活の描写との指摘もあります。

ところが、この作品は是まで不可能と思われる因果とか因縁と言われる原因不明、摩訶不思議な現象の解明をする作品でも有るのです。

「運命」と言う言葉が多く出て来ます。

「平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。」と言うように。

平凡な作品では無く、特異な人間心理の究明が主題なのです。

解明出来ないと、敬遠され、無視されて来た部門なのです。

それを難解な専門用語を使わず、日常の生活で誰もが普通に会話に使っている言葉で、誰もが経験している具体的な決断や判断の結果が、思わぬ結果に成る事例です。

そしてその、因果関係を明かにしているのです。

誰もが『門』を読めば検証して確認出来るように解説します。

ただ科学的ではないと言われる、内観的な手法で、実験と観察、統計的な方法では無いかも知れません。

しかしこの『門』は日常では見られない実験として考えて下さい。

普通の人間の生活から、知情意を捨て去った特殊な条件で、人は如何なる行動をとりうるのか、またその効果を解明しているのです。

『門』は漱石の実体験から生まれたものですが、読者は実験として読まなければ、理解に苦しむでしょう。

ただ漱石の仮想実験は、小説の中で極限に近い状態として表現されています。

科学の実験と違って、期間が特定出来ない、長いスパンの原因と結果を問題にしているのです。

その長いスパンの間には、何が原因で何が結果なのか特定する事は不可能であると考え勝ちです。

あるいは結果ではなく、途中であるかも知れません。

また忘れてしまった事実で有るかも知れません。

長い人生の実生活の中で、原因と結果の始点をどの様にきめるのか、実験の様に勝手に決めることは出来ません。

結果の時点も同様に人為的に決める事は出来ないのです。

そこで漱石は不明確な結果の時点を次の様に決めました。

そのスパンの取り方を漱石は目標の挫折、失敗、悲劇をその人の選択の蓄積の結果として検証して、作品を発表して来たのです。

漱石の作品は悲劇で終わっているのが多いのです。

『坊ちゃん』、『三四郎』、『草枕』、『虞美人草』、『抗夫』、『それから』などは、どれもある意味で悲劇で終わっています。

そのほかの作品も有るでしょう。『門』もやはり参禅が挫折に終わっていました。それでも、『門』はハッピーな結末で終わっている所が違います。

ここで人生目標の挫折、失敗、悲劇を、おおかたの評家は否定的に評価する傾向にあります。

しかし、漱石は否定的に挫折等を捉えていないのです。

偉大な科学的発見をしたノーベル賞受賞者の発言の中には、失敗や挫折を詳細に観察して、見直した結果として新発見発明をしたと言います。

見方を変えれば、失敗と言う事実、結果はそれまでの過程の結実なのです。

漱石も挫折、失敗、悲劇を人生上の選択や判断の結果として、どの様な日常的な選択や判断、習慣が間違っていたのか、反省、自覚する良い機会として捉えていたのです。

『虞美人草』では 「悲劇は喜劇より偉大である。」「悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。」と言います。

「自己の出立点」とは何か、それが原因結果のスパンの始まりを意味するのです。

悲劇が結果であれば、「自己の出立点」に原因が存在するのです。

原因結果の結果の時点は失敗の時点に一致します。

ところが、「自己の出立点」の時点は具体的には何歳のどの様な選択で有ったかは解りません。

そこで意識を遡る事に成ります。

『門』で宗助はそのスパンを六年と言います。

「外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。」と言います。

「内に向って深く延び始めた」とは時間的には過去に向かって記憶を遡るのです。

意識の流れを逆さまに検証して行くのです。

我々読者は漱石の用意した課題とその回答を『門』で確認すればよいのです。

なお『門』は参禅体験も重要な主題であります。

そして、この「六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった」と言います。

このスパンが丁度鎌倉の円覚寺で参禅してからイギリス留学中迄が約六年になります。

二十七歳の十二月に参禅、三十三歳の九月に留学しています。

そして「自己の出立点」が参禅で、イギリス留学は淋しい孤独な生活でした。

文化や生活様式の違い、池田菊苗の影響で『文学論』の研究、著述を始めます。

そのため「世間に散漫な交渉を求めなかった」のです。

これが一つの仮説です。

さらに、偶然禅の歴史を読んでいたら。お釈迦さまは出家して、インドの菩提樹の木の下で瞑想して悟りを得たといわれます。

出家してから悟までの期間がおおよそ六年だと推定されています。

漱石もロンドン留学中に頓悟したのではないかとかんがえています。

その期間がやはり約六年でありました。

お釈迦さまも菩提樹の木の下で「世間に散漫な交渉を求めなかった」のは 良く知られているところです。

偶然の結果なのでしょうか、それとも、因果論的に必然の結果なのでしょうか。

漱石は『文学論』で頓悟は突然ではあっても、当然の結果であると、理論的に説明しています。

『文学論』で漱石は「禪に頓悟なるものあり、其の説をきくに自ら悟に近きつゝ、自ら知らず、多年修養の功,一朝機縁の熟するに逢ふて、俄然として乾坤を新たにすと。」言います。

悟りには少なくとも六年のスパンが必要と考えられます。奇しくもそのスパンがお釈迦さまの悟りと一致しておりました。

しかも中国禅宗の開祖と言われる偉大な達磨大師は中国の少林寺で壁に向かって座禅を続け悟りを得たと言われる「面壁九年」は有名な言葉であります。

達磨大師の記録の多くは伝説で真実性に疑問も残りますが、「面壁九年」の記録は科学の実験記録に相当するとも考えられます。

その歴史的記録と、漱石の体験から何らかの因果関係を究明できます。

しかも、頓悟とは天地が動転する程の強烈な自覚を伴うのです。

「自ら悟に近きつゝ、自ら知らず」と言っても、それは六年間の途中の自覚を意味していて。

悟った瞬間の感動は自ら明確に自覚しているのです。

そのことを、「俄然として乾坤を新たにす」と言います。

因果関係は悟りに限った事では無く、日々の選択や行為は原因であり、その結果は現実の事実として現れます。

人間の何気無い選択が因果関係の始まりである事を『門』は、明かにしています。

それは心や行為に限らず肉体的にも言えるのです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

夏目漱石の作品からの引用は岩波書店の漱石全集第六刷を参照引用しました。


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