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理解しないでいい。

自分がどんなに憧れる存在に近づきたいと思っても、それは叶わない。

だって、それは自分の中で起こっていることだから。憧れる存在を創り出しているのは自分。

勝手に創り出しておいて、嫉妬したり、憧れたり、今の自分を卑下したりしている。でも起こってくる現象や感情、思考は、本当に勝手にやってくるので、ただそれを受け入れてしまう。

だって、抵抗しても自分の中でしか起こっていないのだから、一人相撲をしているようなもの。

体験する世界は、全てこの内にある。

私の憧れる人も、忌み嫌う人も、大好きなペットも、美しい風景も、ゴミすらも、
全て内にある。

五感(見る・聴く・匂う・味わう・感触)も、全てこの内でしか起こっていない。

このカップもこのお花もこの内の中で現れている。

トイレに行きたいという生理現象も、頭にくるなあという感情の動きも、
全部この内で起こっているだけ。

その根底(全体)には、そんな思考や感情の舞台を支える絶対的安心がある。

愛と言ってもいいのかもしれない。

けれど、我々はその絶対的安心(愛)をあまり認識しない。認識される必要がないから。

私が存在していることが、その絶対的安心があることを証明している。

何だかよく分からないなあ、と頭が混乱したら、分からないままにしておく。

理解した、という自己満足は自我というものを強固にしてしまうだけだから。

今日はこんなところです。

いつもありがとうございます。


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