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私の本棚 『翼の王国』

 これから飛行機に乗る、と思ったら何もかもをゆるせる。ありえないくらいの早起きも重い荷物も、あわてて口の中に押し込む冷たいサンドイッチもすべて楽しい。飛行機に乗ればどこかへ行ける。それになんと言っても『翼の王国』が読めるのだ。

 『翼の王国』は、ANAグループの機内誌だ。旅がテーマで、冒険の心をかきたてるような、色とりどりの写真と魅力的な記事がつまっている。どこかへ行くたびに一冊いただいて帰り、その時の旅行先を記入して本棚にしまうのが楽しみの一つになった。たとえば、2016年10月は「東京。ピンクリボンスマイルウォークに参加」。妹が乳がんの闘病を終えたばかりだった頃だ。『翼の王国』は私にとって、読み物であるとともに、思い出の記録でもある。

 毎回記事は読みごたえのあるものばかりだけれど、とりわけ好きなのは、吉田修一さんの旅のエッセイ。『悪人』や『怒り』は、人間の暗部にぐっと踏み込んだ深い物語だ。核心に触れないことで触れるという凄みが、小説の内側からにじみ出てくる。そんな小説を書いた人が、旅の途中で道に迷ったり、ちょっとした恥をかいたりしていて、読むたびになんだか、軽やかで明るい気分になれる。ものすごい作家がつねに生まれたての感性を持っているのは、無垢な旅人になれるからかもしれない。

 並んでいる雑誌を改めて見ると行き先はたいてい「東京」で、二、三カ月に一度は出張していた。七年間めまぐるしく働き、一区切りを終えて去年の秋に退職した。仕事はやり切った感があるけど、飛行機に乗る定期的なチャンスを失ったのは残念だったかもねと、ちょっとだけ、そんなことを思ってもいる。

 仕事を辞めたらあの国にいこう、この国もいいなと、『翼の王国』や行くあてのない国のガイドブックを眺めてはうっとりしていた。学生時代の貧乏旅行から種が育って、勤めることになったのは外国人ばかりの会社だ。いろいろな国に知り合いができ、「遊びにおいでよ」なんて言ってくれる今、行こうと思えば時間の都合はつけられるくせに、家で文章を書くばかりの毎日。「まずは、一番、やりたいことを。」…もしかすると、これこそが自由というやつなのかもしれない。
 
 思い出は迷惑メールとはちがって、30日後に自動に削除はされない。でも引越しがちな人生を選んだから、いずれ雑誌を処分することになるだろう。ハワイの虹の記事を読みながら東京へ行ったことを、いつまで鮮やかに思い出せるだろうか。すこしぬるい紙カップのコーヒーと、心地よいちいさな灯りの旅情を。

 スケジュールはゆるゆる空いているくらいがちょうどいい。本棚にも少々、空きがあるくらいがちょうどいい。

 空っぽのところには、新しい風が流れ込むようになっている。

 と、いいな。




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■吉田修一さんの連載は『空の冒険』や『作家と一日』など作品集として書籍化されていて、もちろんこれらも私の本棚にあるのです。
■『翼の王国』は、フライトアテンダントさんにひとこと言えば、新品をいただけます! あと、定期購読もできるみたいですね。
■ヘッダー画像は、いちばん好きな表紙。カラフルな鳥たちのさえずりが聞こえてくるようです。

 ここまで読んでくださってありがとうございます。同じように機内誌を集めている方、いるんじゃないかな:)


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