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【再考】なんのために生きるのだよ?

あ、どうも。僕です。
寒いですね。とても寒い。(語彙貧)

もうあと数か月もないのだけれど、僕はまだ塾講師なのである。当然、塾では大学入試の過去問題を解くのである。僕はそれを解説するから、これまた当然、僕も大学入試の過去問題に目を通すのである。

例えば現代文の問題に目を通すとき、それはもう読書タイムである。入試問題は、自然科学、哲学、社会学、はたまた小説。実に様々な文章から出題される。そしてそのたびに、僕はなにか知識を得るのである。ここで言う知識とは、「あれ知ってる、これ知ってる」というような情報としての知識ではなく、物事の捉え方、考え方である。知見と言うと少ししっくりくるかな。ともあれ今現在の僕の知見というのは、一定の割合、この読書タイムから得られたものである。

先日、そんな「過去問読書タイム」からまた新たな知見を得た。そしてそれは、僕が以前抱いた問い「なんのために生きるのだよ?」に、1つの解を与えたのだ!!

まだ読んでない人は、先に『なんのために生きるのだよ?』を読むことをオススメするぞ。内容忘れたって人も復習しとくといいぞ。

さて、僕が読んだのは、東京経済大学の2019年度入試問題への出典、小浜逸郎著『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』だ。

出典部分では、主に「意味や目的を問うこと」について記述している。

ある行動や表現が意味や目的を持つとは、さしあたり、それらが他の行動や表現に従属するような関連を維持しているという以上のことを意味していない。しかしその場合、他の行動や表現は、また別の行動や表現に従属する形で関連を持ち、それらは結局、自分自身の生の充足それ自体という究極目的に帰着するような連鎖関係を持っている。

小浜(2000)

小難しい表現だが、僕なりの解釈で例えを挙げるなら、そうだな。

「仕事をする目的は、お金を稼ぐことである」というとき、「仕事をする」という行動は「お金を稼ぐ」という他の行動を実現するためのものであって、それを小浜は「従属的な関連」としている。そんで、その「お金を稼ぐ」という他の行動にも、例えば「お金を稼ぐ目的は、食べ物を買うことである」という関連が成り立って、「食べ物を買う目的は、空腹を満たすことである」と、最終的には人間としての欲求を満たすこと(小浜のいう「自分自身の生の充足」)に繋がっていく…という。

こんな議論を通して、さらに小浜は次のように論じる。

意味や目的の意識とは、ある行動や表現の外側に出て、それらをその終局点の見地から対象化し、他の行動や表現に関連づけることである。

小浜(2000)

ここで言う「意味や目的の意識」は「意味や目的を問うこと」と言い換えて差し支えない。だろう。きっと。「なんのためにこんなことしとるんや…」という思考が頭に浮かんでいる状態を想像してもらえればいい。

このとき、僕たちは自分の行動をいったん俯瞰して、その行動によって引き起こされる他の行動を考える。その「他の行動」が最終的に自分にメリット(自分自身の生の充足)をもたらすと判断できたとき、その行動には目的や意味がある!となる。つまり、意味や目的を問うことは、「その行動が、次に何をもたらすか」を考えることなのだ。


ここからが本題で、以上のような理論を「何のために生きるのだよ」に適用すると、困ったことが起こるのだ。

意味や目的の意識とは、行動や表現をその終局点の見地から対象化することであると見なすなら、一方で人生の終局点が死であることを人間は知ってしまっているのであるから、人生全体の意味や目的は死に他ならないということになりかねない。

このように、人生の個々の断面や場面の意味や目的は、人生の内部にだけあってその外に出ることができない。したがって人生全体をその外側の何かに関連づけるような、そういう他の「何か」などは存在することができない。

小浜(2000)

先ほどまでの議論において、意味や目的を問うことは、「その行動が、次に何をもたらすか」を考えることである。しかし、「人生の意味や目的」を考えるとき、「人生の次」を僕たちは知り得ない。

というわけで、『何のために生きるのだよ』への小浜の回答は、「人生に意味や目的を問うことはできない」である。

以上が、僕がこのたび身に付けた知見であり、『何のために生きるのだよ』への解。結局、「生きることに意味はない」という前回の趣旨にかなり近いが、僕的にはかなり深まっている。


「人生の意味や目的を問うこと」が無謀なことならば、そこに意味はないのだろうか。ここからは僕の思索の一人旅。つまり蛇足。

「人生の意味や目的を問うことはできない」と肌で感じながら、それでも人間は問うてしまうのだろう。知り得ない「人生の次」を考え続けている。その一つの表れが、宗教的思想なんじゃないかと思うのだ。

古代日本人は、「人生の次」を「黄泉の国」に見出した。キリスト教では「人生の次」に「天国」や「地獄」を見出した。仏教では輪廻転生を説き、人生の次にはまた人生があり、その人生ループからの「解脱」が最終の目的であるとした。

どの「人生の次」が正しいかは、やはり知り得ない。でもまあ、それぞれの「人生の次」を持つことが、精神の安寧に繋がるのなら、そこには「意味や目的」が生まれているはずである。不安が軽減するのなら、それは「自分自身の生の充足」に繋がるからね。

あれ、じゃあ「人生の意味や目的を問うこと」に意味はあるよな…?

思索の旅はまだまだ続きそうである。



引用文献

小浜逸郎(2000)『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』洋泉社。


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