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歴史・人物伝~太平記・倒幕編①鎌倉末期の時代背景とは

「思い入れ歴史・人物伝」で、日本最長の歴史文学と言われる「太平記」を取り上げます。太平記の舞台となる時代は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての約50年間で、日本史上指折りの動乱期です。

歴史・人物伝~太平記編では、動乱の発端となる鎌倉時代末期にスポットを当て、太平記での描写を原本にしながら、登場人物を紹介していきます。
その前に、時代背景に触れておきたいと思います。

天皇家の両統迭立

太平記の中心人物となるのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇が即位した当時の天皇家は、持明院統と大覚寺統という二つの皇統が交互に天皇を即位させていた「両統迭立(りょうとうていりつ)」でした。

両統迭立の背景には、承久の変の戦後処理以降、鎌倉幕府が皇位継承に深くかかわるようになったことが挙げられます。そして、二つの系統のきっかけとなったのは、後深草天皇と亀山天皇の兄弟でした。

それぞれ、自分の子孫に皇統を継がせたいと思い、対立が深まっていったのです。そこで幕府が「交互に皇位を継承しなさい」と裁定を下しました。大覚寺統の後醍醐天皇も、その流れの中で即位しています。

後醍醐天皇は、兄の子である邦良親王が皇太子でした。しかも、その次は持明院統の量仁親王(のちの光厳天皇)とされ、このままでは一代限りの天皇となる運命が待ち受けていたのです。

鎌倉幕府の北条得宗家専制

一方の鎌倉幕府ですが、源頼朝が幕府を開いたものの、源氏将軍は3代で潰えてしまいます。その後、将軍は京都から摂関家や皇族を迎え入れ、幕府の実権は、執権を担う北条一族が握っていたのです。

その中でも、北条氏の惣領家系は「得宗家」と呼ばれ、権力の中心にいました。頼朝以来の家臣だった御家人は、得宗家を中心とした一族によって粛清されたり、抑えられたりしていたのです。

太平記が描かれた当時の得宗家惣領は北条高時でした。幕府は高時を頂点として、北条一族と御内人(側近たち)が牛耳っており、御家人が幕府の政治に参画することが出来にくい状況になっていました。

やがて、後醍醐天皇が倒幕を企図し、動乱が起きるようになると、御家人にも同調しようという動きが出てきます。その中に、太平記のもう一人の主役である足利尊氏がいたのです。



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