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歴史・人物伝~関ケ原編⑫「三成との友情に殉じた」大谷吉継

歴史・人物伝~関ケ原編の第12回です。

西軍を束ねた石田三成が、一番最初に徳川家康打倒を打ち明けた大名が大谷吉継だとされています。三成が佐和山(彦根)、吉継が敦賀という「領地を接する間柄だから」というだけではありません。

吉継と三成、真田親子の関係

吉継は、信長の重臣だった頃の秀吉に近習として仕え始め、秀吉が天下統一を果たしてからは、奉行衆として豊臣政権を支える役目を担ってきました。つまり、三成の同僚だったのです。

敦賀の支配を任される実力者でしたが、病気に冒されてしまい、次第に政権の中枢から離れていきます。健康であれば、おそらく三成や浅野長政らとともに、五奉行に列していただろうと思います。

三成とは深い友情で結ばれていたとされています。有名な逸話ですが、秀吉が開いた茶会で、病身の吉継が口をつけた茶碗を誰もが嫌がりましたが、三成は平然と茶を飲み干したそうです。

また、吉継の娘は真田信繁(幸村)に嫁いでいます。信繁は大坂城に出仕していたとされており、吉継はもちろん、三成とも懇意であった可能性があります。

壮絶な関ケ原での戦いぶり

徳川家康が上杉討伐軍を起こしたとき、吉継も従軍するつもりでした。そこに三成がやって来て、自身の決起に同意するよう求めてきます。家康に通報される可能性もありましたが、三成は吉継を信じていたのです。

吉継は「無謀だ」として三成を諫めましたが、決意の固さを知り、最後は共に戦う決断をします。吉継は、丹羽長重ら北陸方面の諸将を調略しながら、家康に味方した前田利長と一戦交えたのです。

さらに関ケ原には早くから陣を張り、三成ら主力部隊が布陣するのを待ち受けます。吉継の陣の南側にある松尾山には、寝返りの噂が絶えない小早川秀秋の軍勢が布陣したのです。

吉継の軍勢は東軍との激しい戦いを繰り広げますが、寝返った小早川軍らが襲い掛かってきたため、壊滅状態になりました。吉継は、三成の友情に殉じ、戦場で自らの命を絶ったのでした。

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