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歴史・人物伝~松陰先生編⑤外国に学ぼうとして密航を企てる

歴史・人物伝~松陰先生編の第5回です。

ペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来て、諸外国の脅威を目の当たりにした吉田松陰は、海防の重要性を再認識するとともに外国の優れた軍事力や文化に驚いたのです。

松陰は「外国を討つべし」という攘夷思想の持ち主でしたが、同時に「外国から学ぶべきことは多い」との考えも持っていました。そこで、一番弟子の金子重輔とともに外国留学の手立てを探ります。

翌年、ペリーが下田に再度来航したのをチャンスと思い、金子とともに旗艦に乗り込み、渡航を申し入れました。しかし、幕府との関係悪化を懸念したペリーは拒絶し、外国留学の夢は断たれたのです。

幕府に引き渡された松陰と金子は、密航の重罪人として投獄されます。死罪になる可能性もあったのですが、最終的には長州藩に護送され、国元での蟄居を申し付けられました。

もし松陰と金子が渡航を果たしていたならば、松陰が松下村塾を開くこともなく、優秀な人材も集まるべくもなく、あるいは長州藩の歴史が変わっていたかもしれません。まさに「歴史の大きな岐路」だったのです。


国元に送り返された松陰は、野山獄に収監されます。そして、金子重輔は病気が悪化し、獄中で亡くなってしまいます。松陰は、金子の死を深く悼み、「死を招いた原因は自分にある」と自身を攻め続けていたのです。


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