トムまつ

いろいろな本や記事を読んで、なるほどと共感したり、自分なりに考えたりしたことが、雑然と…

トムまつ

いろいろな本や記事を読んで、なるほどと共感したり、自分なりに考えたりしたことが、雑然と頭の中に溜まっています。少しずつ、思いつくままに文章にしながら頭の中を片付けて、自分が何を大事にしているのか、浮き彫りにしたいと思います。

最近の記事

認識を広げる:その2の2 マインドフルネスについて【広がりのある視野を持つ】

 前回、認識を広げるというテーマに関して、マインドフルネスについて考えてみました。マインドフルネスでは今に集中することを奨励されますが、その「今」は、過去や未来を強迫的・防衛的に断ち切ったバラバラの「今」ではなく、自然に前後が今に流れ込んでいるものだということを述べました。(そこでは触れませんでしたが、木村敏の「あいだ」理論では、音楽の演奏を例として、前後の流れの中で音楽を奏でていく場面の分析も参照していただくと良いと思います。)  さて、今回はその続きとして、空間的な側面

    • 認識を広げる:その2の1 マインドフルネスについて【幅のある「今」ということ】

       人間は、強力な認識力によってことばを活用し、それによって考えたり、他の人間と意思や感情を共有することができます。ことばは、今‐ここの状況に縛られることなく、時間的にも空間的にも概念的には無限の飛翔力を持っています。あるいは、法律や経済(お金)のように約束事で成立する制度を作りだし、社会や文化を形成することもできます。こうした認識力は、個人においては自分という存在がベースになっているわけですが、自分が良いと思える状態(安全安心とか幸福とか)を作り出そうという働きが、長い人類の

      • 認識を広げる:その1 子どもの遊びやフィクションを楽しむ

         前回、「すでに自分であるところの自分」をあるがままに生きるということと、周りの人々(社会)と関わるということのバランスについて、木村敏の「あいだ理論」を援用して考えてみました。音楽の独奏、そして合奏を喩えとして、今その瞬間に音という形で自分を出していく動き(独奏のときはノエシス、合奏のときはメタノエシス)と、どのような音をどのようなタイミングで出すのかということを意識している働き(ノエマ)とが、バランスと保ちながら音楽が生成されていくのと同じように、あるがままに自分を生きる

        • 木村敏『あいだ』理論を援用する

           前回の記事のあと少し間が空きましたが、今回のテーマも前回の続きです。社会に適応するために迎合的になるあまり、誰でもよい誰かになってしまった「世人」であることを止め、「すでに自分であるところの自分」すなわち、本来的な自分を生きるという生き方について、前回書きました。そのような生き方を選択したとき、社会への適応を顧みず、周囲の状況や自分に向けられた期待などお構いなしの「アウトサイダー」以外の生き方はないのでしょうか? オーセンティック(本来的)な自分を生きるということと、周囲の

        認識を広げる:その2の2 マインドフルネスについて【広がりのある視野を持つ】

          「世人」か「アウトサイダー」か

           「すでに自分であるところの自分」、それが魂だとして、それを生きるということが「善」であるということを、ここ数回の記事で書いてきました。ウィトゲンシュタインは犬のふるまいに犬の魂を見出していますが、人間の場合、そのように素朴に自分の魂を生きるということが案外難しいということも、いろいろな人がいろいろな言い方で言っています。  例えば、実存主義の哲学者ハイデガーは、他者を、取り換えのきく誰でもよい誰かというふうに関わり、また、自分自身も誰でもよい誰かになってしまっているような

          「世人」か「アウトサイダー」か

          魂の関係を回復する

           魂って何だろう?という問いについて、鏡に映っている自分、言い方を変えると人に見せている自分ではなく、鏡のこちら側の自分、あるいは哲学者池田晶子の言い方を借りると、「すでに自分であるところの自分」のことなんじゃないか、ということを前回書きました。  今回もその続きですが、ユング派の心理療法家の河合隼雄は、かつて、援助交際をする若い女性に関するテーマに際して、「体と心とを裏打ちして「いのちあるもの」として、人間を生かしているのが「たましい」である」と述べています(『世界』19

          魂の関係を回復する

          「魂」って何だろう?

           「魂(たましい)」という言葉があります。長年、この「魂」という言葉の意味あるいは概念を、どのようなものと考えたらよいか、機会があるたびに考えてきましたが、なかなかとらえにくい言葉のひとつです。  とらえにくい理由の一つは、意味に幅があるということだと思います。「死後の魂」というような霊的な意味合いでも使われますし、「入魂の一投」のように、その人の全存在がにじみ出ている、みたいな使い方もします。  前者の霊的な意味に関しては、「霊魂」のような合成語でも使われますね。これに

          「魂」って何だろう?

          西田幾多郎が考えた「善きこと」とは?

           京都の哲学の道と言えば、西田幾多郎が逍遥しながら思索にふけったことで有名ですね。実際に哲学の道を散策したことがあるという人は多いと思いますが、西田幾多郎の著作を読んだという人は、それほど多くないかもしれません。彼の主著『善の研究』は、明治から大正、そして昭和へと、急速に近代化が進む中で、自らの立脚点を探す試みであると同時に、また、当時の日本人にとって、暗い夜道に足元を照らすライトのように感じられたのではないかと思います。  ただ、哲学者が書いたものだけに、文体も用語もかな

          西田幾多郎が考えた「善きこと」とは?

          自分を純化するって、どういうことなんだろう?

           鏡の向こう側に理想の自分を追い求めていくのではなく、鏡のこちらにいるありのままの自分を大切にするということについて、いくつかの記事を書いてきました。でも、鏡のこちらの自分ってどの自分?って疑問が湧きますよね。  以前の記事に、ラカンの鏡像段階という考え方について書きました。ちょっとだけ繰り返すと、人生のはじまりの乳幼児期に、人は身体的にも心理的にも未統合な状態でもがいていますが、運動能力と認識能力の高まりとともに、鏡の中に自分の鏡像を見つけ、視覚的に自分という統合された存

          自分を純化するって、どういうことなんだろう?

          夏目漱石と「自己本位」

           自分がどのようであらねばらないのか、自分の外側に理想のイメージを追いかけるあまり、ほんらいの自分が後ろに置き去りにされてしまう……。このところのいくつかの記事では、そのような分裂を、鏡に映った自分(他人から見た自分)と鏡のこちらで体験している自分として比喩的にとらえ、理想のイメージを追いかける悲劇について、ジュリアン・グリーンの小説を題材に考えたり、鏡のこちら側の体験している自分に留まることの大切さについて、稲垣えみ子さんのエッセイやイチロー選手、大谷翔平選手などを手がかり

          夏目漱石と「自己本位」

          「憧れるのをやめる」ことで得られること

           鏡のこちら側の自分(体験している自分)と鏡に映った自分(意識的にとらえた自分)が分裂していること、そして、ともすれば鏡に映った自分を「ほんとう」の自分だと思って追いかけてしまうことについて、お話してきました。今回は、鏡のこちら側、つまり体験している自分にとどまることを選んだ場合のお話です。  もうひと昔も前のことになりますが、野球のイチロー選手がアメリカに渡ってメジャーリーグに挑戦した一年目を追ったドキュメンタリーがNHKで放映されました。今でこそイチロー選手の活躍はレジ

          「憧れるのをやめる」ことで得られること

          鏡に映った自分を追いかける悲劇

           前回、鏡に映った自分とそれを見ている自分という記事を書きました。たいていの場合、鏡を見ている自分が「ほんもの」であり、「自分」だという認識があります。でも、鏡に映っている自分のほうが自分であるように感じるとしたら、どうなってしまうのでしょう?  ジュリアン・グリーンの『私があなたなら』という小説は、それがテーマになっています。主人公の男は、ひょんなことから目の前の相手に乗り移る呪文を知ります。自分の体は後に残して、相手に成り代わるのです。お金持ちだったり女性にモテる外見を

          鏡に映った自分を追いかける悲劇

          鏡の向こうの自分とこっちの自分

           さて、無意識あるいは自ずから(おのずから)というあり方について考えるにあたって、自己意識というところからはじめたいと思います。自己意識というのは、意識の対象が自己であるとき、つまり自分に意識が向いているときのことですね。比喩的に、鏡を見ているときのことを思い浮かべてみましょう。  鏡に自分が映っていて、それを自分が見ています。そのとき、鏡に映っている自分とそれを見ている自分がいます。鏡に向かってニコッと笑えば、鏡に映っている自分もニコッと笑います。どっちの自分が「ほんもの

          鏡の向こうの自分とこっちの自分

          ことばは、事の端(ことのは)しか言い表せないけど、ことばを使うしかない

           意識と無意識のバランスをとるということはどういうことか、それを考えるために、まず意識の方から見るために、有島武郎の「リアリスト」、森田療法の「あるがまま」、認知行動療法の「マインドフルネス」などの考え方を見てきました。これらは用いている用語は違いますが、共通して今、現在の体験を中心に置いています。こうした考え方と無意識ということがどのようにつながってくるのか(あるいは、「自ら(みずから)」と「自ずから(おのずから)」という以前の記事の区分では、自ずから(おのずから)というあ

          ことばは、事の端(ことのは)しか言い表せないけど、ことばを使うしかない

          「マインドフルネス」というアプローチ

           さて、今回も意識と無意識のバランスについて、まずは意識的な面からの取り組みのアイディアを、いろいろな素材を手がかりに考えるということで、最近(というか、ここ十数年来)よく目にするマインドフルネスについてです。  マインドフルネスは、仏教の修練の一つとしての瞑想にその源流がありますが、心理療法の一つである認知行動療法が取り入れるようになったことで、その用語が多くの人に知られるようになりました。もともと認知行動療法は、ものごとをどのように見るかという「認知」がネガティヴな方向

          「マインドフルネス」というアプローチ

          「あるがまま」というあり方

           今回も意識と無意識のバランスについて、古人の知恵を見ていきたいと思います。今回は森田療法で知られる森田正馬が勧める「あるがまま」についてです。  森田療法は20世紀のはじめごろに、森田正馬によって創始された心理(精神)療法で、禅などの東洋思想を、恐怖症や不安性障害などいわゆる神経症(とかつて呼ばれていた症状)の治療に活かしたものです。森田の考えによれば、不安の背後には、こうでありたいとか、こうではありたくないといった願望や執着といった欲望があります。とりわけ、望ましくない

          「あるがまま」というあり方