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認識を広げる:その2の1 マインドフルネスについて【幅のある「今」ということ】

 人間は、強力な認識力によってことばを活用し、それによって考えたり、他の人間と意思や感情を共有することができます。ことばは、今‐ここの状況に縛られることなく、時間的にも空間的にも概念的には無限の飛翔力を持っています。あるいは、法律や経済(お金)のように約束事で成立する制度を作りだし、社会や文化を形成することもできます。こうした認識力は、個人においては自分という存在がベースになっているわけですが、自分が良いと思える状態(安全安心とか幸福とか)を作り出そうという働きが、長い人類の歴史(といっても地球や宇宙の歴史に比べるとほんのちょっとの期間ですが)を通じてこうした能力を伸展させてきたと言えます。

 「ものごころがつく」とか「自我が芽生える」という言い方がありますが、人間は高い認識力によって自分という存在にこだわりながら、自分と自分を取り巻く世界との関係について、何らかの理解(自己観や世界観と言っても良いでしょう)を形成します。そのような自己観や世界観にこだわることで、何かを生み出しているとも言えるでしょう(何もこだわりがなければ、自己表現などもする必要がないですし、必要を感じて何かを生み出そうともしないでしょうから)。

 とはいえ、そうした自己観や世界観は自分が思っている以上に、思い込みで形作られた狭い認識の枠組みの中で不自由しているという面があるものです。ニュースを見れば、自分という存在や自分が属している集団や価値観が重要になるあまり、それにこだわり、かえって融通が利かなくなるという問題があるのは明らかで、現在も続く戦争・内紛や、差し迫る環境問題など、人間の知性の不完全さを示す材料には事欠きません。個人においても、人と比べて自分が損していると感じると腹立たしくなりますし、権利が侵害されると憤りを感じます。何かと何かがぶつかりあうということは、自然界でも普通に生じますが、自然界の現象はその場限りで禍根を残しません。それにくらべて人間の認識力は、過去(ときには何代もの世代をまたぐ)の怒りを引きずりますし、未来を憂えたり少しでも自分に有利にしようとあくせくしたりするものです。

 こうした人間の認識力の問題点を踏まえ、より良く認識力を活用するコツについて、古より多くの哲人たちがさまざまなアドバイスを残してくれています。例えば、だいぶ一般にも浸透してきた感のあるマインドフルネスという実践もその一つです。マインドフルネスについては、すでに以前にも簡単に触れたことがありますが、認識力の高さゆえに過去や未来について思い煩わされるという落とし穴に陥らないよう、今の体験に集中することが勧められています。

 とらわれないために今に集中する。そうすることによって心の平安がもたらされるようなイメージもありますが、実際のところ、こころの中には雑多な想念が去来しているものですし、そうした想念の中には意識を向けることで、かえって気持ち的にはザワザワと動揺しやすくなってしまうということもあるでしょう。

 確か、ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』だったと思いますが、トラウマ記憶を想起することを回避するため、こころの統合を犠牲にして、ひたすらに今、今、今の連続を生きているという叙述があります。心の中で過去や未来のことを考えると不安になってしまうので、心の中から目をそむけ、今、目の前にあることに断片的な注意を向け続けるというわけです。不安が高い人は、何もすることがなく手持ち無沙汰になると不安なことを考えてしまうので、昔はTVでしたが、最近はYouTubeのように流し続けられるコンテンツをひたすら受動的に見ているという話をしばしば耳にします。過去や未来にとらわれてしまうから、視野を極力狭めて、流れてくる映像だけに限定し、それ以外の記憶や感情を締め出そうとするわけです。そうなると、マインドフルネスで言うところの今に集中するということと同じことをしているようですが、強迫的・防衛的な頑なさが伴い、集中している「今」も、自分の内的な体験は締め出され、自分の外側の断片化した情報が脈略なく流れ込んでくるだけです。

 これも以前にお話ししましたが、有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」は、過去に愛着する人をセンチメンタリスト、未来を憧憬する人をロマンチストと呼び、美しくも輝かしくもない現在の生活を生きる人をリアリストだと言っていますが、現在に生きるリアリストも、過去や未来をないがしろにしているわけではないと言います。有島のことばを使うと、「過去は私の中に滲みとおり、未来は私の現在を未知の世界に導いて行く」のであり、「私は、過去未来によって私の現在を見ようとはせずに、現在の私の中に過去と未来とを摂取しようとする」ということです。そしてそのとき、「かくて私は現在の中に三つのイズムを統合する。そこにはもう、三つのイズムはなくして私のみがある」と言っています。過去や未来にとらわれるでもなく、さりとて先に述べたように強迫的・防衛的に今に集中することで、断片化した「今」の集積になることもなく、こころの内と外、そして過去と未来が自然に一体となった今を生きることができていると言えるでしょう。

 「今」には過去や未来が流れ込んでいます。そのような幅のある「今」を認識しつつもそれにとらわれずに流していくことができてはじめて、断片化した「今」ではなく、統合的に「今」に集中することができるのではないでしょうか。そのとき、問題になるのは湧き上がってくる想念との距離の取り方です。次回は、今回に続けてマインドフルネスに関連して、体験との距離について考えてみたいと思います。

 


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