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西田幾多郎が考えた「善きこと」とは?

 京都の哲学の道と言えば、西田幾多郎が逍遥しながら思索にふけったことで有名ですね。実際に哲学の道を散策したことがあるという人は多いと思いますが、西田幾多郎の著作を読んだという人は、それほど多くないかもしれません。彼の主著『善の研究』は、明治から大正、そして昭和へと、急速に近代化が進む中で、自らの立脚点を探す試みであると同時に、また、当時の日本人にとって、暗い夜道に足元を照らすライトのように感じられたのではないかと思います。

 ただ、哲学者が書いたものだけに、文体も用語もかなり硬質ですので、いわゆる"How to"本のようにサラッと読んですぐに役立てようとすると、簡単に弾き飛ばされてしまいます。わかりやすく解説してくれている入門書なども参考にしながら取り組んでは挫折し、またしばらく経ってから読んでまた挫折して、ということを繰り返しているうちに、だんだんわかってくる。そんな感じの本だと思います。

 『善の研究』では、いろいろなテーマが取り扱われていて、はじめのうち、何がどうつながっているのかわからず、バラバラな感じがするかもしれません。でも、『善の研究』というタイトルなのですから、「善」つまり、善きこととは何かということについて書いてあるはずです。今回はそこに絞って考えてみたいと思います。

 西田幾多郎が考える「善」を一言で言うなら、「自己の発展完成 self-realizetion」ということになります(そこにたどり着くまで、長い「哲学の道」があるのですが、ここでは端折ります)。人には考えたり想像したり感じたりといったいろいろな精神活動がありますが、それを統一する意志という働きがあります。また、わたしたちにはそれぞれ自己という一つのまとまりがありますが、意志はそのようにまとまった自己の活動だとも言えます。そして、意志を生み出す要求や理想があるとすれば、自己そのもの性質から生じているはずで、そのような自己を実現していく、それが善いことなのだと西田は言います。

 なんだ、そんなことか、と感じるかもしれません。ただし、西田が言う自己とは、自分勝手で利己主義的な自分ではありません。私たちが「自分」だと思っているような表面的で主観的な自分ではなく、むしろそのような自分を消し去り、忘れ去ったところに出てくるのが真の自己なのだと西田は説きます。

「真の善とはただ一つあるのみである。即ち真の自己を知るというに尽きて居る。(中略)而してこの力(主観と客観が一つになったときの力)を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後蘇るのである。」

西田幾多郎『善の研究』第三編「善」の最後の段落(括弧内は筆者による注)

 「善」についての結論の部分からの引用です。なにか凄みを感じさせることを言っていますね。「偽我(ニセの私)を殺し尽くし」たときに蘇ってくるのが真の自己だということですが、このあたりが、なかなか難しいところで、「実在」とか「純粋経験」とか「行為的直観」といった、関連する難しい用語やテーマともつながっていくところなのですが、ここでは深入りせず、ひとまず立ち止まっておきましょう。ここで押さえておきたいのは、「自己」にはそれぞれがこだわって執着しているような表面的な自己と、それを手放した時に現れ出てくる深い自己があるということです。これまでも、鏡に映った私と鏡のこちら側にいる私という喩えや、自ら(みずから)と自ずから(おのずから)という読み方の違いなどの記事でお話してきた二分法が重なりあいます。鏡の喩えでいうなら、鏡のこちら側にいる私を大事にするということを、西田幾多郎も言っているのだと考えてよいでしょう。

 前回の記事で書いたように、自分を純化していくということは、偽りの自分を手放して、よりオーセンティックに感じられる自分を増やしていくということなのだと思います。人はそれぞれ、こうしなければいけないと思い込んでいて、なんか違うなと感じながらもやっていることとか、逆に、とてもムリと思ってやっていなかったこととかがあるものだと思いますが、ちょっと違うなと思ったことは手放し、やってみようと思うことをやってみる。そんなふうに実際に体験してみて、それが自分にとって偽もの(借りもの)なのか本物なのかを吟味していくことが大切なのだと思います。

 とはいえ、偽りの自分なのか真の自分なのか、それをどうやって見分けていくのか、という点は大事なところです。西田幾多郎もそれについて、いろいろな用語を駆使して説明しようとしています。少しずつ、関連する素材をもとに吟味を続けていこうと思います。


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