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「世人」か「アウトサイダー」か

 「すでに自分であるところの自分」、それが魂だとして、それを生きるということが「善」であるということを、ここ数回の記事で書いてきました。ウィトゲンシュタインは犬のふるまいに犬の魂を見出していますが、人間の場合、そのように素朴に自分の魂を生きるということが案外難しいということも、いろいろな人がいろいろな言い方で言っています。

 例えば、実存主義の哲学者ハイデガーは、他者を、取り換えのきく誰でもよい誰かというふうに関わり、また、自分自身も誰でもよい誰かになってしまっているような生き方をしている現代人を、「世人(ダス・マン)」と呼びました。社会の中で適応しようとすると、いきおい生活を合理的で効率的なものにしようとするものだと思いますが、それって一生懸命に「世人」になろうと努めているという見方もできます。とはいえ、本来的な(オーセンティックな)自分を生きるということは、社会に適応するということと相反することもあって、けっこう難しいものだということも知っておいたほうがよいでしょう。

 アイデンティティという用語で有名な精神分析家のエリク・エリクソンは、『青年ルター』の中で、アイデンティティの危機に直面したマルティン・ルターが、真正さ(オーセンティシティ)の感覚を取り戻していく苦難の過程において、自分自身を信頼し、本気で取り組むことができるようになっていく姿を描いています。ルターの場合は自分自身を取り戻していくということが、宗教改革という社会的な運動につながっていくわけですが、自分に正直に生きるということは、ときに社会の「本流」に対してアウトサイダー的な立ち位置に立たざるをえないこともあるのでしょう。

 ひと昔前でしたら、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』がそのような人物たちを取り上げて論じていました。もう少し現代に近いところだと、スティヴ・ジョブズが率いていたころのアップル社の「Think Different」というキャッチコピーが印象的なCMが思い浮かびます。

 「すでに自分であるところの自分」あるいは鏡のこちら側にいる自分を生きるということは、みんながみんなこうした社会の変革者であるわけではありませんが、社会とのあいだで多少の軋轢は生じるでしょう。そうならないように、多くの人は「世人」として必死に適応を続けているのだとも言えます。適応を続ける努力が限界を超えた時、適応障害とかうつ病といった精神的な問題といった反応が生じ、当事者はそれで非常に苦しみますが、その苦しみにはそれまでの生き方を見直すという積極的な側面があると言われるのは、こうしたつながりの中で理解することができます。

 いろいろな問題が山積する現代社会の問題のひとつは、今の教育が社会的に望ましい(つまり経済活動に参加できる)人を育てるための「世人」養成機関になってしまっていて、それぞれの魂を生きるということを誰も教えてくれないというところにあるんじゃないかと思います。もちろん、社会に適応すること自体が問題というわけではありません。ただ、社会への適応ばかりに目を向けていると、本来的な自分が日の目を見ることができず、内的に死んでしまうということも知っておく必要があるんじゃないかと思います。


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