鏡に映った自分を追いかける悲劇
前回、鏡に映った自分とそれを見ている自分という記事を書きました。たいていの場合、鏡を見ている自分が「ほんもの」であり、「自分」だという認識があります。でも、鏡に映っている自分のほうが自分であるように感じるとしたら、どうなってしまうのでしょう?
ジュリアン・グリーンの『私があなたなら』という小説は、それがテーマになっています。主人公の男は、ひょんなことから目の前の相手に乗り移る呪文を知ります。自分の体は後に残して、相手に成り代わるのです。お金持ちだったり女性にモテる外見を持つイケている男とだったり、自分にない良いものを持ち合わせている人の乗り移ってみますが、乗り移ってみると案外いろいろ不都合なことがあり、じきに嫌気がさしてきて、別の相手の体に乗り換えていきます。何度も乗り移っていたために、元の自分に戻ろうにも戻れなくなってしまっています。次第に自分が誰だかわからなくなり、精神的におかしくなっていく……。だいぶ前に読んだのでちょっとうろ覚えですが、おおよそこんなストーリーの小説です。(古い本ですので図書館で探してみてください。一応、アマゾンのリンクを貼っておきます。)
もちろんこれはフィクションですが、同一化と呼ばれる人間のこころの動きを比喩的に描いていると考えることができます。前回の記事で書いたように、ジャック・ラカンの鏡像段階の理論では、生後数か月の乳幼児が鏡の中に自分を見つけた時、外側のイメージを手がかりにして自分という存在を統合的に認識すると考えられます。そのとき、うまくコントロールできない「ほんとうの」自分から、鏡に映った統合的な自分(見慣れた親に比べて小さいとはいえ、同じ人間として構造を持っている存在として)に乗り移っている(同一化)しているわけです。子どもはよく遊びの中で、ヒーローものやヒロインものになったかのようなごっこあそびをしますね。そのとき、現実のちっぽけで無力な自分はどこかに置き捨てて、万能的な力を持っているという空想を楽しみます。大人になるにつれて、こうした万能的な空想を断念して、いまいち受け入れがたい鏡のこっち側の自分(よくコンプレックスと言われますが、そういうものを持っている自分ですね)を受け入れていくのが情緒的な発達の過程ということになります。
ただ、それが案外うまくいかないのが人間の常で、たいていの場合は大人になってからも、なかなか今の自分に満足できず、あるいは何か不安感のようなもの駆られて、自分の外側に自分を変える何かしらを懸命に求めてしまうものです。
最近読んだ稲垣えみ子さんのエッセイ『寂しい生活』(東洋経済新報社)に、それに関連することが述べられていました。稲垣さんは、東日本大震災と福島の原発の事故を機に、電力をなるべく使わない生活を試み、やがて必要と思われた電化製品を次々に手放していく中で、ご自分の生活や感じ方が変わっていきます。軽妙な語り口で、日常のことをおかしく描きながら、さらりと現代の行き詰まりについて本質的な疑問を呈しておられ、すごく考えさせられます。電化製品に囲まれた便利な生活を享受している「豊かな自分」を追いかけ続けることで、めんどくさいと言えばめんどくさい「生きる」ということ自体を見失っているのでないか、という指摘を読むと、ジュリアン・グリーンの小説の主人公が、良いものを持っていると思った相手に乗り移っていく中で自分を見失う姿と重なります。
稲垣さんのエッセイでは、電化製品を手放していくなかで、「豊か」な自分というイメージから、ほんらいの小さな自分に戻っていきます。ちょうど、ジュリアン・グリーンの主人公と逆の方向に進むわけです。自分を大きく見せようとパンパンに膨らんだ風船がしぼんた先に、もとの自分に到達します。そして、もとの小さな自分に戻ったら、思いのほか楽で、安心で、こころに風が吹く感じがした、というくだりが続きます。このくだり、とても素敵ですね。これって、鏡に映った自分から、鏡のこっちにいる自分に立ち返ったってことなんだろうと思うのです。
次回は、そもそも鏡に映った自分ではなく、鏡のこっちの自分を選択した人の話をしたいと思います。
ついでですが、稲垣えみ子さんの『老後とピアノ』(ポプラ社)もお勧めです。