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「神道は宗教にあらず」?

今、島田裕巳先生の『神道はなぜ教えがないのか』を読み終わった。最近、本を読んでも、頭に残らないことが多くなったから、面白いなと思ったところを書き写しながら読んだ。老化防止をかねて手書きで。パソコンに向って文字を打ってばかりいたら、書けなくなって唖然としたことがあったから。

前にも書いたけれど、面白いと思ったのは、神道にはこの世界を創造した神がいないということだ。

 一神教の神なら、天地が創造される以前から存在し、創造という営みに主体としてかかわっていく。それに対して、日本の神々は最初から存在するものではない。第4章でも述べたように、それは「なる」神であり、いつの間にか生み出されていく。とくに最初にあらわれた神々は、その時点では何の営みもしないまま消えていった。

『神道はなぜ教えがないのか』p86

この他で面白いと思ったことをいくつか書き出してみる。

「ない宗教」の一面でもあるが、仏教と習合してみたり、儒教と習合してみたり、それでいて飲み込まれていない。明治期に「神仏判然令」(「神仏分離令」)が出されて、江戸時代に共存共栄していた仏教を切り離すことができたというのは、神道が仏教に飲み込まれていなかったということだ。

明治政府は国民に神道を強制する。そのときに問題になったのは、近代国家において「信教の自由」は保証されなければならないということだ。この矛盾をどうやって解消するか。その際に使われた論理が「神道は宗教にあらず」というものだった。神道は国家全体の祭祀であり、特定の宗教の実践ではないとされた。その考えかたは、広く国民に受け入れられた。

p190より要約抜粋

神道のこの特徴は、日本語の特徴と共通すると思った。

日本語は外来語を取り込みやすい言語だ。名詞はそのまま、動詞はサ変動詞(ーする)にする、形容詞はナ形容詞(形容動詞、ーな)にする。

例えば、動詞であれば、
 「読書する」は「漢語(≓中国語)+する」
 「リスペクトする」は「英語+する」

形容詞であれば、
 「壮大な」は「漢語(≓中国語)+な」
 「ゴージャスな」は「英語+な」

ガンガン外来語を入れても、やっぱり日本語だ。ちなみに、日本語は膠着語(こうちゃくご)とも言われている。膠着とはひっつくこと。シュメール人の使っていた言語も膠着語なんだそうだ。

神道も、仏教やら儒教やらの外来の宗教や思想を入れても、やっぱり神道を保ち続ける。


また、仏教のお寺は「人のための場所」であって、神社は「神のための場所」であること。お寺は礼拝や祈願だけではなく、僧侶が修行をしたり、学問をしたりする場で、世俗性をまといやすい。神社で重要なのは、神が鎮座しているということだから、神聖さが保たれる。

宗教に期待されることは、人々を救うことだ。でも、神道は「救済しない宗教」だ


「宗教」の定義は研究者の数だけあると言われるけれど、
神道って本当に宗教なのか?


明治政府の苦し紛れの論理「神道は宗教にあらず」は、本質を突いているかもしれない。

宗教というより、日本人が日本人であるための根幹のようだ。ユダヤ人の定義は「ユダヤ教を信じる人」ということになっているそうだが、似ているのかもしれない。しかも、神道は、日本語と共通する特徴を持っている。言語は文化の根幹だから、神道もまた日本文化の根幹かもしれない。


ユダヤが出てきたので、次はユダヤを連想した話。

大きな神社では、代々神職を世襲する「社家」というものがあって、出雲大社の社家は千家氏と北島氏で、「出雲国造 (いずもこくそう)」と呼ばれる。もともとは、政治と宗教を司っていたが、今は祭祀だけだ。

国造 が亡くなると、後継者は喪に服することはなく、松江市にある熊野大社に神火を鑚(き)り出しに行き、それを自らの死まで灯し続ける。前の国造の遺体は、赤い牛に乗せて運び出され、出雲大社の東南にある菱根(ひしね)の池に水葬される。

p122より要約抜粋


「神殿研究所」(エルサレム神殿の再建を目的に活動しているイスラエルの非営利組織)というところが、エルサレム神殿に捧げる生け贄として赤い雌牛を育てているそうだ。

イスラエルで2000年ぶりに“赤い雌牛”誕生、「最後の審判」開始で人類滅亡へ! 宗教戦争やオバマの政界復帰にも関連か!? (tocana.jp)


出雲大社で使われる赤い牛が雌牛かどうかは分からないけれど、なんか関係あるのでは?と思った。イスラエルの習慣や「聖書」についても、出雲大社や古代の出雲勢力についてもよく知らないから、ただの偶然をみつけただけかもしれないけれど。



もし、ユダヤの人が日本に渡ってきたとしたら、天地創造という営みはもう終わっているのだから、日本の神話では、創造主の話はすっ飛ばしたのかもしれない。そう考えると面白い。

こういう動画もあった。


日ユ同祖論は聞いたことがあっても、スピリチュアル系か何かのようにしか思っていなくて、大して気にも留めていなかったが、個人的な体験もあって、興味を持つようになった。私がご先祖さまを思い浮かべるとき、江戸時代あたりに遡ることもあれば、古代のこのあたりまで遡るときもある。

”キリスト教”はやっぱりあまり好きではないが、『聖書」が面白いというのは、私の遠いご先祖さまのお話のような気がするからかもしれない。それから、もう一つ、もし、ご先祖さまがユダヤ人であれば、私たちの背後には神がおられることになる。神が嫌うことを止め、神が好むことをすれば、いい方向に向うということだ。これはけっこう嬉しい。

そういう目線で世界や歴史を見渡せば、色々と納得できることがある。なぜ、日本がこうも叩かれてきたのか、その中でも特に何を叩いたのかってね。まあ、そんなことを言えば、カルトだ!とか、インボー論だ!って言われるだけだろうけれど。

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